『dialogue』について


 Gallery ART SPACE は、1998〜2000年に開催した3人展のシリーズ『Frontiers』および、互いに見知らぬ二人の作家の展覧会を計 46組分コーディネートするシリーズ『Collaborators』の企画を進めてきましたが、このシリーズも全ての会期を終えてみると、コーディネートや企画に費やされる労力が非常に多いために作家一人一人と向かい合う余裕がなく、企画としては大方成功しながらも私自身の中にストレスが蓄積されてきたこともまた事実で、一人の作家の作品とじっくり向かい合いつつギャラリーの仕事と関り合いたいという気持ちが、今回の『dialogue』を思い立ったきっかけになっており、作家同士ではなく、Gallery ART SPACE を主宰する私・篠原との一対一のやりとりをもとに、作品のジャンルや世代、地域の枠を越えた、今まさに行われている表現の多様な在り方を、作家と共に発言してゆこうと考えています。
 このシリーズが一般の個展と異なる点は、展覧会テ−マをギャラリーが作家に提案し、それに対する検討を出発点にして双方で展覧会をつくり上げてゆくこと、それぞれの会期前には各作家の表現について私が記した2,000字前後のコメントをもとに、すべての会期に対して展覧会の前に各作家の制作場に赴いて対談を行い、それをテープを起こして作品論のテキストと共に公表すること、会期中に私・篠原と作家との対談をギャラリーにて公開で行うこと、会期後にはやはり2,000字程度のコメントを作成し、展示写真と共に数年間ホームページ上で公開することなどです。 
 なお企画名である『dialogue』という語は、コンピューターの質問形式の注意書きでおなじみの通り、「対話」と訳されますが、これは企画者である私と作家との「対話」を意味するだけではなく、作品を通じてなされる作家と観客の「対話」や、企画自体を通じての私と観客との「対話」の意味も含んでいます。


開催済みの展示

Vol:1 平原辰夫 『環流展』(2004年9月)
Vol:2 金武明子 『golden hours』(2004年9月)
Vol:3 幸和紀 『水脈抄』(2004年10月)
Vol:4 小林宏道 『UNDER STRUCTURE〜Die Belriner U-barhnhof〜』(2004年10月)
Vol:5 高草木裕子 『彩廊の寓話』(2004年11月)
Vol:6 島村美紀 『after light』(2004年11月)
Vol:7 永瀬恭一 『tracing expressio』(2004年12月)
Vol:8 阿部尊美 『風景34427』(2005年1月)
Vol:9  山本あまよかしむ 『men』(2005年3月)
Vol:10 ともみ(2005年3月)
Vol:11 山本耕一『CODEX』(2005年4月)
Vol:12 高橋理加(2005年8月)『人機能取扱説明書』
Vol:13 安藤順健(2005年9月)『Approach to Islam』
Vol:14 上覚英島(2005年10月『crossing sight』        

以下は、展覧会開催時に発表したテキストおよびインタビュー、展覧会評です。

Vol:1 平原辰夫 『環流展』(2004年9月に開催済) 目次に戻る
 平原辰夫の作品との最初の出会いは、今から17年前の1987年、私が22歳の時だった。その当時美大生だった私は、銀座や神田、青山のさまざまなギャラリーに出入りしており、その内の一軒である銀座の「ギャラリーケルビーム」は、神田の「真木画廊」と並んで毎週のように訪れた場所で、そこでたまたま見て心魅かれた展示が、平原による紙を支持体とした作品の個展だった。
 彼の表現は、今に至るまで基本的な部分では一貫して変わらない。厚手の紙の上に均一かつ重厚に塗られたアクリル絵具は、支持体そのものと同化することで色彩を表し、時には錆びた金属のようにも見える一つの物質と化すが、描かれたものが単に作者のイマジネーションを示すだけではなく、そうしたイマジネーション自体が色彩や支持体と組み合わさって、一つのリアルな存在として現実の空間の中で自立する姿に、平原の作品が持つ大きな魅力を感じ取ることができたのである。それから数年間は、同じくギャラリーケルビームにて毎年開かれる平原の個展を見続けることとなったが、ある年に銀座の「熊本県民館」で展示された作品との出会いは、彼の作品展を私が自ら企画する一つのきっかけともなった。それは、何層にも張り合わせた厚手の紙に平原独特の物質的ともいえる絵具の塗布を施し、それを壁に取り付けるのではなく、筒状に丸めて床に直に設置した作品で、そこでは、本来は二次元状のものであるイメージが筒のかたちとなることで新たに立体的な空間と化し、彼の作品の特徴であるイメージそのものの物質性がことさら強く表されていたのである。
 そして、その後ほどなくして縁があり、1993年にGallery ART SPACEにて平原の個展を企画するにあたって私が彼にリクエストしたイメージが、この筒状の作品だった。ここでの展示は、彼独特の同様の手法による不定形の紙の作品3点を重ねて床に敷いた上に、筒状に丸めた大小の作品4点を組み合わせて構成したものだが、それに加えて、同じく紙を張り合わせて作った160×160cmほどの支持体に、「ひょうたん」を縦に長く伸ばしたようなものや、「米粒」のような細長の楕円形のイメージをいくつか並べて描き、それを壁にピンナップした2点の絵画作品が出展された。この縦長のイメージは、それ以降、2000年にかけてGallery ART SPACEにて6度にわたって開かれた個展の中でも、時折思い出したようにしばしば画面に現れることとなったが、彼自身からは、これは「トルソ(人体)」の象徴であるという説明を聞いたことがある。
 ところで私自身、平原の作品を見始めてからすでに17年、実際に企画者として関わるようになってから11年の歳月が経つわけだが、そうした中で築き上げられた彼の表現に対する印象は、前に述べた絵具の均一な厚塗りによる画面やそれを立体物とした表現、「トルソ」をもとにしたイメージに加えて、定型の小さな紙に均一な色彩と幾何学的なかたちの組み合わせをもって表された、彼にとっての「ドゥローイング」ともいえる無数の作品や、さらには地面や外壁のひびや汚れをモチーフにした写真作品など、さまざまな表現の形態が半ば平行して行われてはいるが、表された画面自体が一つの物質であるかのような独特のイメージを核として、作品の形式を超えて、彼がつくるあらゆるものが違和感なく受け入れられるというものだ。
 Gallery ART SPACEでは4年ぶりとなる今回の個展で、私は平原に対して、核となる一つのイメージをもとに多数の不定形のパーツに分割した作品群を、ある部分ではギャラリーの壁面全体に拡散させるようにまばらに、またあるところではそれらが集束するように密に展示することで、膨張と圧縮を繰り返しながら永遠の時空をつくり続けるといわれる「宇宙」の摂理を象徴するような展示のイメージを提案した。それは、作品のかたち自体は半ば解体されてギャラリー全体に拡散するが、その核にあるイメージの部分は作品の形態にかかわらず一貫しているために、展示空間全体が平原によるイメージを示し、そこに身を置く私たちはその中に包まれるという状況を想定してのものだが、彼の表現に現れる色彩やかたち自体は決して特別なものではないのに、なぜそこに平原独自のイメージが生まれるのかというところに私は強い興味を抱いており、今回の展覧会を通して、その理由の一端なりとも探り当てたいと考えているのである。
篠原 平原さんは色を結構均一に塗っていますよね。それは、色自体を何かのイメージとして画面にのせたいということがあるんでしょうか。
平原 割とムラがあるのは好きなんですけれども、余計なものは除きたいんです。
篠原 余計なものというと。
平原 ムラといっても、ノイズとしてのムラはいいんだけれども、僕の目に感じる無駄は消したいんだ。画面に静かな緊張感を与えたいと思っていて、僕の感覚では、ムラがあると視線が「さまよう」気がするんです。あと、以前熊本会館で発表した作品(着彩した和紙を丸めて立体とした作品)は、大地の表面を剥がして丸めるようなイメージでやったんです。最近、錆のようなものにも興味はあるんだけれども、もともとは土とかに興味があるんです。
篠原 土ですか。
平原 以前、焼き物をやってみないかと誘われたこともあるんだけれども、ちょっと違うんだな。
篠原 土というけれども、そのおおもとに何か具体的なイメージはあるんですか。多分、使っている色にも深い関わりがあるように思うんですけれども、具体的な場所のイメージがあるんでしょうか。
平原 場所というと、家は農家だったから、土には親しみがあったんです。でも、それぞれの作品のイメージが具体的にどこから出てきて、なぜこの色が好きなのかは、自分ではわからない。つまり、自分の好みははっきりわかるけれども、それがどうしてかまではわからないんです。幼児体験までいくと、何か(イメージのもと)があるかもしれないけれども。
篠原 東京には、もうかなり長く住んでいますよね。東京に対するイメージと、今の作品との関わりはあるんでしょうか。
平原 東京との関わりはないかもしれない。多分、僕は東京に来なかったとしても、どこにいても今のような作品をつくっていたんじゃないだろうか。
篠原 では東京に来て、もとからある素地に何か付け加えられたものはあるんでしょうか。
平原 それはやっぱりあるでしょう。東京では、田舎では見られないいろいろな作品がある。僕は高校を出てすぐに東京にやって来たんだけれども、素朴な田舎の青年にとっては、例えばシュールでも、もう珍しいわけです。幻想的なものに最初はすごく魅かれたんですよ。ああ、こんなことをやってもいいのかって。高校の時に図書館でたまたま見た百科事典の中で、ダリの小さな図版を見て、それがもともとのきっかけなんです。
篠原 シュールの絵もやってみたんですか。
平原 やりましたよ。ベルメールとか。人体をデフォルメしたりとか。それが「トルソ」の(イメージをもとにした)絵の原型になっているかもしれない。
篠原 確かに作品の中には「トルソ」のイメージが出てきますよね。ところで、絵を描く場合には「身体尺度」という考え方がありますよね。まず「トルソ」のイメージがあって、平原さんの身体があってというように、平原さんの作品では、それが自身の身体の生き写しになっているんじゃないだろうかと思うこともあるんですけれども、「トルソ」のイメージが出てこない作品でも、自分の身体と画面との関係が何かあるんでしょうか。
平原 身体というと。
篠原 身体といっても、イメージの上での問題なんですけれども。
平原 それは多分ないと思う。
篠原 自分の身体と画面との関係がまずあるじゃないですか。身体のイメージをまず頭の中でつくって、それが表されるのかどうかということなんですけれども。
平原 やはり、イメージの方が(比重が)大きいでしょうね。ますイメージがあって、それを表すというような。
篠原 まず、身体によって表されるものがあるじゃないですか。例えば平原さんの作品では、ドゥロ−イングが重要な意味を持っているけれども、そこでは画面が大きくても小さくても、腕の振り幅の違いがあるだけで、身体の動きから同様に具体的なかたちがつくられている。
平原 それは多分違うな。それはあまり意識しないですね。確かに「トルソ」を意識する場合もあるんだけれども、ただ、自分の身体はそれほどは意識しない。ただ目だけの問題であってね。
篠原 視覚的なことということですよね。
平原 あとはマチエールや質感で、僕は、月のような、錆のようなざらざらしたマチエールが好きなんです。紙を使うのもそのためなんだけれども、キャンバスにただ塗るというのはしっくりとこないんです。絵の場合、支持体と一体化させるということがまずある。篠原 紙を使うというのは、どのあたりからきているんですか。
平原 キャンバスだと、上から塗ってのせているという感じがして、一体感がないんです。
篠原 キャンバスだと、裏返すと違うものになってしまうという感覚があるんでしょうか。裏側では何もイメージが表されないということなんですが。
平原 うーん。(制作の)作業をしている最中のことなんですけれども、紙を使うと一体となる身体感覚があるんですけれども、キャンバスだと、木枠に張られていることで何かしっくりとこない。
篠原 今回の展覧会のテ−マとしては、さまざまなかたちで表されるのにイメージが全部一貫していて、それらで空間が構成されるということを目指しているんですけれども、そう考えると、今言ったように、一体感をもとに求心的な場が生まれて、かたちやサイズの違いに関わらず個々の「パーツ」のイメージが同じ密度をまとっているという。
平原 (全体を合わせて)一つの絵であるということが、非常に大きな意味を持っているんですよね。確かに、「平面」と「立体」という分け方はあると思うんですけれども。僕は最初、平面を丸めれば立体になるんじゃないかという、すごく単純なとらえ方をしていたんです。作業の途中に切れ端で遊んでいて、立体って簡単じゃないかというのがあって、それを床に置いたり壁にかけたりして、そこからだんだん(イメージが)膨らんでいったんです。
篠原 私は、平原さんの作品は全てが絵画だと思っているんです。絵画の条件としては、二次元上のものであるというのが一つありますけれども、立体的なかたちのものであっても絵画の範ちゅうにあると思う。絵画についてはどのように考えていますか。自分自身の作品についてでもいいし、一般的なことでもいいし。
平原 一時、イリュージョンを排除するという(美術の)動きがあったでしょ。僕は、人間(の知覚)からはイリュージョンは絶対に外せないと思うんです。何を見ても、例えば石ころを画廊に持ってきて展示した人がいたけれども、そこにはやはり、ただの石ころとは違うものが見えるはずで、何かのイメージを感じさせる。それは絵画でも同じことで、イリュージョンからはどうしても逃れられないと思うんです。
篠原 確かに、絵画という存在が成り立つ一つの条件ですよね。
平原 それでも、イリュージョンの方向には自分の作品は持ってきたくないんです。
篠原 ただ、イリュージョンをいかに一つのリアルな現実にするかということも、絵画の一つの方向性だと思うんですけれども。
平原 例えば、天井のしみを見てそこに何かを感じるようなことを、積極的に自分の作品でやりたいとは思わない。だけれど、イリュージョンは僕にとってすごく大事なもので、全然否定できないんです。ただ線を引いただけでも、そこにはやはりイリュージョンを感じてしまうし。
篠原 そこには空間がもう一つできますよね。その空間のリアルさというのは、絵画の種類を分けるような気がするんです。
平原 昔、シュールの影響を受けた頃にはそんな部分もあったかもしれないけれども、今では積極的にイリュージョンをつくろうとは思わない。
篠原 自然にできてしまったイリュージョンについては、それも一つの現実であるということなんでしょうか。
平原 そういうことなんでしょうね。
篠原 自分とは違うもう一つの存在であるという。それはもちろん、身体とも意識も深く関わりを持っているんだろうけれども。
平原 そうですね。  金武明子は、なぜおもちゃによる小さな世界にかくもこだわるのだろうか。
 和紙(張り子などに使用するもの)を何層にも重ね合わせた上から、錆のようにも見える赤や緑、オレンジ、青などのアクリル絵具をスポンジで塗布するという手法で制作し、そうやってできたレリーフ状の色面を手でちぎってさまざまなかたちとした、100点を超える小さな不定形の「絵画」を壁面でランダムに構成して行われた展覧会。
 「絵画」として分割された「パーツ」は、10cm〜60cmほどとサイズもかたちもさまざまだが、今回の展示に先がけて行った平原へのインタビューの中で彼自身が、「大地を剥がしたようなイメージがもともとある」と語っているように、ざらざらした表面の触感は、土壌の手触りのような不思議な質感を感じさせる。またこれらは、片面のみではなく表裏両面に渡って彩色が施されているが、そうした点も、「パーツ」の一つ一つが「絵画」としてのイメージを強固に保持しながらも自立した「モノ」でもあるという平原の作品独特の存在感を支えているといえるだろう。
 ところでこの展覧会には『環流天』というタイトルが冠されているが、これは企画者である私(篠原)が思い描いた展示のイメージを平原に提案した末に決定したものである。この内の「環流」とは、始まりも終わりもなく物事が永遠に循環してゆく様を示し、「天」もまた、「天空」などといった果てのない空間を指し示している。つまり私は意識の内で、終わりのない空間がギャラリーに生み出される様をイメージしたのだ。そうしたイメージを、実際の展示ではギャラリーの壁面および窓に、「パーツ」でとしての多数の絵画の小片が連なるようにぐるりと取り巻いて設置されて「円環」となることで実現を目指したのが、今回の展覧会だったのである。そして、「小片絵画」によるこの「円環」は一直線のものではなく、1mほどの上下幅を持つウェーブをつくるように虫ピンで壁に留められ、その途中では、中心が空の直径150cmほどの正円が描かれ、また他の箇所では、「パーツ」を折り重ねるようにしてできた同様のサイズの円から左半分を取り除いたようなかたちが、空間の中のアクセントとしてつくられた。またこのウェーブは、ところどころで先端が交差してはいるが、それは円環のイメージを弱はするが、壁面上での二次元的な空間の広がりを強調し、使用された色彩の多様さおよび鮮明さと相まって、観る者の意識の中にさまざまなイメージを感じ取らせるのである。
 さらに、作品がつくる空間の性質に触れると、この展示での一つ一つの小片は、ただ単に平面上に設置されたわけではなく、厚く重ねられた紙が自然に生む反りや、作品設置の際に平原が手で丸めて変形させたことによって、壁面に複雑なかたちの影を落とし、その独特の存在感が強調されているといえる。これに関して平原は、前出のインタビューで「絵画でも丸めると立体になってしまう」という発言をしているが、そうした三次元的な要素を併せ持つ彼の作品は、画面に現れる色彩をもとにしたイメージの強さをもって、たとえ立体として提示されたものであっても明らかに「絵画」の領域にあるといえるだろう。そしてそれは、今回の展覧会テーマとして私が平原に持ちかけた、空間の中での全体と部分との関わりの中で「小片絵画」が個々にイメージを主張し、それが集積することで統一された新たなイメージが「絵画」として現れるということが、まさに一つの実例として私たちの前に示されたものとしてとらえられるのだ。
Vol:2 金武明子 『golden hours』(2004年9月に開催済) 目次に戻る
金武は、昨年私が企画した中川るなとの二人展『ふたつの部屋』(Gallery ART SPACE.2003年)で、ドールハウスに使われる数cmほどのごく小さなソファーやチェスト、観葉植物等の家具を床に置いて構成したおもちゃの リビングルーム(遠く離れた場所にはバービー人形のための白いファーのスリッパが揃えてある)の真上に、実物のカットガラスによる照明を天井から吊るして床の間際に低くぶら下げ、そのライトが床に落とす光と影がこのごくごく小さな「部屋」をドラマティックに浮かび上がらせるという、きわめて不思議な距離感を持った展示を行ったが、近年彼女は、DJ用のヘッドフォンセットや映画用の「カチンコ」をはじめとして、人形用のミニチュアを使った作品を発表してきた。
 ドールハウスやバービー人形は、本来幼い少女の憧れの世界が小さなかたちとなったものであり、こうした遊びの中では、まず主役である人形がいて、その周囲に小さな架空の世界がかたちづくられる。しかし、金武の作品では人形が登場することはなく、その周囲のモノたちだけが選ばれて、何も手を加えることのない状態のまま現実の中にもう一つの空間がつくられる。それらはいかなる意味を担っているのだろうか。
 その答えについての好奇心も今回の展覧会を企画するにいたったきっかけの一つであるが、私は今回の企画にあたって、彼女が展示のための「素材」を常日頃購入しているという、外資系のおもちゃのディスカウント・チェーンである「トイザらス川崎高津店」(彼女の自宅から最も近い「トイザらス」であるということだ)に連れ立って訪れたことがある。
 ある雨の夜、Gallery ART SPACEまで金武に車で迎えに来てもらい、彼女がしばしば通うであろう道をたどって目的の店に到着する。私自身「トイザらス」には今まで何度か足を踏み入れたことがあり、日本全国どの店舗もほとんど同じ内装であることも加わって、初めて訪れた場所であるのにすでに見慣れた光景が広がっている。しかし、今回目指すべきドールハウスや人形が置かれている「少女」のためのエリアに入るのは初めてで、作品の素材になり得るかそうではないかを金武から聞きながら、そこに積み上げられた多種多様の人形たちや付属のパーツの一つ一つを見てゆくにつけ、少女たちの心の一端に触れるような不思議な気持ちをわずかながら味わうことができたのである。

 ここで、金武が行ってきた表現について簡単に触れておこう。彼女は、市販の既製品をそのままのかたち、いわゆるレディ・メイドとして使用するようになってからは、ライト・ボックスを床にいくつか並べた上にそれぞれ円形のイメージを置いた作品や、小さな円形の鏡によるドットを貼って並べることでさまざまな色彩を意味する英単語を壁面上に表した作品、床にコピー機を置いて来場者にコピーボタンを押してもらう作品など、無機質なモノがあるイメージと結び付くことで表現が成り立つような作品を発表した後、さまざまな色の女性のかつらに「笑い袋」をそれぞれ仕込んだ作品や、アルファベットの木の積木を組み合わせて大勢の女の子の名前を表した作品、おもちゃの家や木馬などを組み合わせて置いた作品など、「女の子の世界」をテーマに、現在彼女が行っている、「トイザらス」で買い求めた市販のおもちゃを主役に据える表現へと進んでゆくが、この「トイザらス」という存在は、金武にとってどのような意味を持っているのだろうか。
 「トイザらス」といえば、天井から床まで大量の玩具が積み上げられたディスプレイと、全国どの店舗でもほぼ同じ内装に統一されているチェーン展開がその特徴だが、思えばそれは、間もなく40歳を迎える私や、私とほぼ同世代の金武などが子供の頃に体験した、アメリカに先導されて今も続く大量消費時代への入口の面影を見るような気がしてならないのである。
 金武の作品に話を戻そう。彼女はそうした時代の面影を追おうとしているのか。外見的には確かにそうした面を見て取れなくもないが、それは核心ではあり得ないだろう。では、自身の意識の中に架空の「少女」をつくり出そうとしているのだろうか。いやそれも、彼女のまなざしの外殻をかすめるに過ぎないように思われる。それでは、彼女がさまざまな少女の玩具を使って表そうとしている世界とはいかなるものなのだろうか。
 それは、彼女の「表現の現場」であるトイザらスに同行しても、私には見えてくることがなかった。しかし裏を返せば、制作の意図を示す作者の「まなざし」の行方が明らかにされないクールさこそ、金武の表現の最大の特徴であり、それだからこそ彼女は、制作の痕跡を残さないレディ・メイドにこだわり続けてきたのではないだろうか。そして、そうした「まなざし」が同じく明らかにされないだろう今回の企画を進める中で、彼女の制作の隠された部分に、「ことば」をもってあえて一歩踏み込んでみようと思うのだ。

篠原 以前金武さんから聞いた話の中で気になってることがあって、それは、ハロウィン・パーティーを一家で毎年やっているという話なんだけれども、それは子供の頃からのことなんですか。
金武 高校生の頃かな。確かハロウィンのブームがあったでしょう。たぶん高校3年か大学1年の時からかな。
篠原 それ以前も、そういうアメリカっぽい雰囲気が家にあったの。
金武 特にないな。純和風ということもないし。私たちの小さい時っていうのは、海外のものがすごく重宝がられたじゃない。特に小学校1年の頃、渋谷にPARCOができて、「シアーズ」とかアメリカのものが入ってきて、そういうものが「いい」という雰囲気はあった。
篠原 それは東京ならではのことだね。
金武 そうだね。幼稚園ぐらいの時は、親からのプレゼントというと、海外のおもちゃとかで、シャンプーでも「エイボン」だとか。今だとアンティークで売られているようなものだけどね。
篠原 「トイザらス」にこだわるのも、子供の時のアメリカ体験があるからじゃないかと思っていたんだけれど。
金武 「トイザらス」が日本にできたのは10年以上前かな。「トイザらス」を発見したというのは、友達からすごくいいと聞いたのがきっかけだけれども、実際に行って「これはすごい」と思ったんです。
篠原 おもちゃが大量に積み上げられていることのすごさですか。

金武 大量だし、チェーン店だという、マクドナルド的なところかな。
篠原 いつも高津の「トイザらス」に行くのは、ただ家から近いから。
金武 近いといったら台場や池袋もあるけど、私の中の「トイザらス」のイメージというのは、街道筋にあって車で行く場所だというもので、そういう中で一番近いのが高津なんです。高津は「トイザらス」っぽいんですね。
篠原 車がびゅんびゅん走っているところに忽然とあるよね。
金武 あの殺伐感が結構気にかかるかな。
篠原 都市以外の店舗は、日本中どこにいってもそうですよね。あと「トイザらス」は、どの店舗にいっても、商品のレイアウトがほとんど変わらなくて、それに驚かされるよね。
金武 ただ一時、水戸とか、地方の「トイザらス」にも結構行ってたことはある。
篠原 あと、子供の頃の話でおもしろかったのが、金武さんは車のおもちゃがすごく好きだったということでね、人形よりも車のおもちゃだったのかな。
金武 人形も好きだったけれど、車も結構好きだった。
篠原 ミニカーとか。
金武 ミニカーは、大量にはないけれど、ちょっとは持っていた。
篠原 女の子はあまりミニカーは持っていないよね。
金武 今じゃ考えられないけれど、ガソリンスタンドでミニカーが売られていてね。そこで初めて買ってもらった。昔のガソリンスタンドは今より大きかったよね。建物の天井も高くて、洗車のスペースもすごく幅があったし。一大空間だった。
篠原 今、作品のために人形を買ったりしているけれども、自分の趣味とは完全に引き離しているわけですか。
金武 人形はあんまり買っていなくて、「バービー」の小物とか、他のおもちゃとかを買っているんだけど。
篠原 決めたキャラクターがあるんですか。
金武 特に人形の小物だったら、「リカちゃん」とか「ジェニー」は買わないというのが自分の中にあって、それはあまりかわいくないということもあるんだけれど、「バービー」のはかわいいかな。「バービー」を部屋に飾るとか、そういうことには別に興味はないな。
篠原 「トイザらス」では自分のために何か買うということはないの。
金武 大体は作品のために買うという見方しかしなくて、自分の趣味のために買うというのはあまりない。
篠原 おもちゃじゃなくて、雑貨類はどう。
金武 雑貨類もあまり買わないかもね。常に、展示するためにいるかもしれないということで買っておく。そうしないと、結構なくなっちゃうんだ。ああいうのって。前、欲しかったものがなくなってしまったことがあって、それ以来のことで。
篠原 今は既成のものを買って、何の加工もせずに置いていて、それ以
前には何かつくっていた時期もあるんだろうけど、どうしてつくらなくなったの。きっかけはあるんですか。何か心境の変化がそのときにあったとか。
金武 紙とかはつくっていたけれども。新聞紙から紙をつくるとか。まったく手を加えなくなっのは、手を加えてしまうと、自分の思いみたいなものが出過ぎてしまうということがある。そういうのにはあまり興味がないということがあって。
篠原 そうなると、作品を観た人の反応の方が興味があるということなんだろうか。
金武 反応じゃなくて、展示をして「こうですよ」というふうには示したくない。自分の思いとかを見てもらって、それが感動を呼ぶということにはあまり興味がない。観る人がいろいろ考えてくれるという。
篠原 観る人はおもちゃに対して何を見るんだろう。
金武 私が使っているのは女の子のおもちゃだから、男性だとちょっとわかりにくいこともあるのかもしれないけれどもね。小さいときにそういうものを見ていなかった人はね。女の子の兄弟とかがいたら別かもしれないけれど。
篠原 女性だと、小さい頃の何かを思い出したりするんだろうか。
金武 自分で表現したものを見せてどうこうというのは無くて、何かのモノで示した方が伝わりやすいという感覚があって。自分の思いというのはやっぱり個人的になり過ぎるから、個人的なものを発表したくはないというのがある。
篠原 持っているけれども出さないということだね。
金武 作品や美術に、私はそういうものをあまり求めていない。今現在、みんなが見ているようなものを、あえておもちゃならおもちゃの分野だけを抜き出して展示するということに興味がある。かといってそれが博物館的な、「トイザらス」のこの分野ではこれだけ売っていますよというように展示をすることには興味はないけれども。
篠原 どこからおもちゃを使い始めたんでしたっけ。
金武 おもちゃになったのは、『留守番展』(Gallery ART SPACE.
1999年)からかな。あれがおもちゃと事務用品の中間みたいな。その前がコピー機でしょ。
篠原 そいえばそうだね。コピー機からはもう6年経っているよね。
金武 『留守番展』がそのはざまだったんで、完全におもちゃになったのは、その次の展示からかな。
篠原 最後の質問ですが、おもちゃについては、展示に使っているからには思い入れがあるんだろうけれども、そのあたりはどうですか。おもちゃを使うこと自体に個人的な思い入れがあるんじゃないかという気がしますけれども。
金武 ただ、事務用品からおもちゃになった理由はちょっとあって。事務用品というのは日常的にあるじゃない。そういうものは、視覚的にあまり合わなくて。
篠原 引っかかりが無いのかね。モノを単純に出すにしても、おもちゃでは引っかかる部分が違うんじゃないだろうか。おもちゃの方が個人的な思い入れや記憶みたいなものが呼び覚まされるような気がするね。
金武 事務用品は、ちょっとそういう面には欠けるからね。おもちゃだと、小さい時の擬似体験とかがある。男の子は遊ばなかったのかもしれないけど、それでも何となくかわいいなとか、入りやすいというか。そういうことで、おもちゃを使うというのもある。色的にも、事務用品だと、白とかグレーとか無機質な色だから、観る人が、美術を拒絶してしまうような気がする。内容的には事務用品でもおもちゃでも変わっていないんだけれども、観る人とのことは結構考えている。自分がどうのこうのというよりも、観る人が観やすいようにね。
篠原 確かに今の作品の方が、何かが想像しやすいよね。同じおもちゃでも、観る人が変わるたびに違う想像になるしね。同じものでも、置かれる場所によって随分変わる。SPACE-Uでやった「カチンコ」のは良かったよね(『Infans 1998-2003』.2004年)。
金武 そう、場所は考える。
篠原 Gallery ART SPACEでやった応接セットのも良かったね(中川るなとの二人展・『ふたつの部屋』.2003年)。
金武 あれは、中川さんの作品との対比ということでね。中川さんの作品がすごく大きなものをつくるということで。今度の作品も、小さいんだけれどね。
 ギャラリーに入ると空間そのものはがらんとしており、床には5〜16cmほどの、キッチュな色彩のプラスティックでできたさまざまな家具や日用品の「おもちゃ」が計11個、互いに数十センチほどの間隔を開けて点在している。これらの一つ一つを見てみよう。
 朱色のベッド、白い側面でスカイブルーの扉の洋服ダンス、朱色のドレッサー、ピンクの口紅、ピンクとグリーンのドライヤー、レモンイエローの造花のバラ一輪とパープルの花びん、朱色の椅子とテーブル、ショッキング・ピンクのカップとパープルのソーサー、赤と白のジャムの瓶、白い取っ手が付いたグリーンの2ドア冷蔵庫、エメラルドグリーンのシステム・キッチン・・・。
 この内ドライヤーと花びん、口紅は実物に近いスケールだが、カップとソーサー、ジャムのびんでは実物の3分の1ほど、その他のものでは30分の1ほどのスケールに統一されている。つまりこの空間では、異なるスケールのものが3種類混在しているわけである。たとえば冷蔵庫とキッチン、カップ、ジャムの4つはある程度の距離を保ちながら一塊に置かれているが、実物ではサイズが大きく異なるキッチンとカップがおもちゃではほぼ同じ大きさであるために、キッチンと冷蔵庫は実際の縮尺よりもさらに小さく思われ、それに伴って周囲の空間もとてつもない広がりを持ったものとして感じられる。またそれは、ほぼ原寸に近いドライヤーと花びん、口紅に対する、ドレッサー、たんす、ベッドの一群にしても同様で、ドライヤーなどがおもちゃとはいえある程度の現実味をおびているからこそ、その他のモノたちの周囲の空間は非現実性を高められるのだ。
 ところで、ここに使われた11個のおもちゃの中で、ドライヤーとバラの造花はひときわ異彩を放っている。まずドライヤーだが、このおもちゃは電池式になっており、スイッチを入れると「ブーン」という音を立てながらモーターが回転する仕掛けになっている。この「音」が思いのほか存在感が大きく、あたかも何かのブザー音のようにギャラリーに鳴り響き、来場者は一様に、会場に入ってきた当初はこの音がどこから発せられるのかということに気を取られる。しかし音の在処に気付いたとたん、ドライヤーの存在が意識の中でクローズ・アップされ、それと共に、心なしかその他のすべてのおもちゃたちも、ただのモノではない「何か」であるような感覚にとらわれるのである。
 もう一つの異質な存在であるバラの造花だが、他のモノがすべて「トイザらス 川崎高津店」で買い求めたおもちゃであるのに対して、これだけは「おもちゃ」ではないものである。このバラは、花弁やめしべ、おしべ、緑の葉にいたるまできわめて精巧に再現された、遠目には本物にしか見えない「商品」であり、観客はギャラリー全体を見渡したときに、これだけが「実物」であるような錯覚を起こすが、それが「フェイク」であるとわかった瞬間、「やはり全てがつくられた世界であった」という思いをもって空間の統一性がことさら強く感じられる。また、おもちゃを覆う「キッチュさ」と「つくりもの感」が、ほぼ実物に近いサイズと質感を持つこのバラのリアルさと対比されることで生まれる違和感は、そのまま空間の奥深さへとつながり、後々におもちゃの色彩や質感をふと思い起こさせるような、小さいながらも鋭い楔にもたとえられる引っかかりを私たちの意識の中に打ち込むのである。
幸和紀 『水脈抄』(2004年10月に開催済) 目次に戻る
 私が生まれ育った家には「井戸」があった。とはいっても、時代劇や後進国を映し出すテレビ画像で見るような滑車と手桶によるものではなく、数十メートルの地下から強力なポンプを使って汲み上げた地下水が水道の蛇口から出てくるというものだ。私が育った村落には、少なくとも私が成人したときにはまだ上水道が通じていなかったが、それは、田舎町からさえ随分距離が離れていたことに加えて、その地は水車が今でも何台かは現役で動いているほど(主に線香の粉やそば粉を挽くためのものだ)水質に恵まれており、あえて上水道を引いてまで生活水を得る必要がなかったという理由による。
 その井戸の水は、夏も冬もそこそこの冷たさで一定しており、子供の味覚にとっても美味なものだった。というのは、私が小学生の時に愛知県の海沿いの町にある叔母の家に泊まった時に、そこで飲んだ水道の水があまりに消毒臭くて生ぬるく感じられ(その町は愛知の中では水道水がおいしいと言われているのにも関わらずである)、あらためて生まれ育った地の水の旨さを知ったのだった。
 なぜこのような思い出を記したのかというと、実家にあった「井戸」と、ここから汲み上げられる「水」こそが私にとっての「井戸」のイメージの根本にあり、その「水」は、ただ単に上質な生活水であるというだけではなく、それ自体が自身にとっての特別な意味をまとう、意識の中の「水脈」にも例えられるものであるからだ。
 この井戸は、家から20メートルほど離れた、主に倉庫として使われていた土間の建物の中にあり、普段は分厚い板で覆われていて、子供は決して近づいてはいけないと言い渡されていた。つまり私は、実際にその中を覗いたことは一度もなかったのだが、目にしたことはなくとも確かにその地下に流れていて、蛇口からは放たれ自身の身に触れ体内に取り入れられるという、想像上のものと実際の物質としての二つの「水」が意識の中で組み合わさることで、私にとっての「井戸」さらには「水脈」のイメージがかたちづくられてきたように思われてならないのである。
 では、今回展覧会を行う幸和紀にとっての「井戸」あるいは「水脈」のイメージとはいかなるものなのだろうか。そこには果たして、私の意識の中にあるような実際の「水」との関わりが見られるのだろうか。

幸はこの展覧会のテーマである意識の中の「水脈」について、私とのメールでのやり取りの中で、彼が発行するネット・マガジン『アルマイトの栞』を引き合いに出して次のように記している。
「『アルマイトの栞』は自分のこれまでの作品全てに通底する地下水脈です。その水脈のあるだろうことは気付いて居たのですが、今までは何処かで偶々湧き出た 水を見つけては汲んで飲むに留まって居ました。
『アルマイトの栞』はその水脈の全貌を地図におとす為に、自分の中に井戸を穿っ て、そこから辿って居る自分自身の地誌でしょう。」
そして、今回実際の造形の要となる「井戸」のイメージについては、「秘密裏に屋内で井戸を穿つと云うこと」とも語る。
 私が知る幸の作品とは、スクラップになった車の部品の一部にティッシュペーパーを貼り朱などの鮮やかな色に染めたものや、板の両面に皺を寄せてアルミホイールを貼り鮮やかな色に着彩したもの、乳白色に透けるようにティッシュペーパーを貼った大きな台やパネルをギャラリーに配置して、演劇の公演のための舞台を兼ねさせたものなど、「水」のイメージとは外見的には縁遠く、意味にしてもかたちや色彩にしてもクールなイメージに覆われている。また、上記のコメントの中でも、自身の意識の奥底にある表現のための「何か」の在処を「水脈」もしくは「井戸」として比喩するのみで、物質としての「水」のイメージはどこにも見あたらない。それにもかかわらず、彼の「水脈」に対するコメントを受け取った刹那、自分自身の意識の中に子供の頃の「井戸」のイメージが思い浮かんだのはなぜだろうか。
 思うに、幸が意識の中の不可視の「水脈」を探ろうとする思索は、実際に地下に流れている姿を目にすることは決してない「水」を、自身の身体との関わりの中で具体的なイメージとして思い浮かべることで生まれる私にとっての「水脈」と、対象となるものは違えども、意識の中でかたちを表そうとする思考のベクトルの上では深く重なり合う部分があるのではなかろうか。そして、それを掘り起こして象徴としての「水脈」を現実の中に放とうとする意志においては、実際の「井戸」のイメージで表される私にとっての「水脈」と、表現の源泉として幸の意識の奥底に流れる暗喩としての「水脈」の接点こそが、私と彼との関わりの核であると思われ、この展覧会を通してその正体をわずかなりとも掘り起こしたいと考えたのだ。
 
 ところで最後になったが、幸の造形は舞踏や演劇の舞台を兼ねて制作されることが多い。つまり、彼の意識の奥底にある「何か」に加えて、そこには演者である他者が否応なく介在するわけだが、それは、幸がつくる造形が意識をかたちとしたものであるのと同様に、彼にとっての「水脈」を他者の身体を通して現実の中に放つ意味を担ってるといえる。
 今回の展覧会でも、女性の舞踏手による公演が二夜にわたって行われるが、そこで私たちは、幸の意識の中の光景が現実の空間に投影された姿を見ることができるだろう。
 (Gallery ART SPACE 篠原 誠司)
篠原 以前、舞踏の舞台美術をやっていたけれども、造形作品の制作とは、どちらを先に始めたんだろか。
幸 物心が付いたときにはもう絵を描いていたというのがまずあって、真っ当に作品をつくり始めたのも舞台よりは早いかな。
篠原 子供の時に絵を描いていたことがずっと続いてきたわけだ。
幸 一番最初は二歳くらいからかな。自動車の絵だったと思うんだけれども。
篠原 家の人がそういうことに興味があったんだろうか。
幸 多分母親に影響を受けていて、風呂の壁にポスターカラーで絵を描いて、そこにシャワーで水をかけるとざーっと流れるというのをやって見せてくれて、同じ色の流れ方は絶対に起きないので、それがすごく気に入ってしまってね。あとは、家の壁で僕の手が届く範囲には全部画用紙が貼ってあった。子供って思わぬ絵を描いたりするんで、それが面白かったんだろうね。今の作品のおおもとにあるのは、そういった幼児体験だと思う。
篠原 舞台についてはどうだろう。
幸 舞台のきっかけの一つは、大学で建築学科に入って、図面を描いたり模型をつくったりすることに飽き足らなくなってきて、自分の手で何かをつくりたいという欲求やストレスが起きるようになってね。子供の時に親にいろいろな舞台に連れていってもらったという経験もあって、無意識の中ではそのあたりに発端があるのかもしれない。でも、舞台について何も知らないのに、突然「舞台の装置や美術をやりたい」と言って回るようになった。そうしたらたまたま若いダンサーと知り合って、最初は客として和栗由紀夫さんの公演を見に行ったことから始まって、そいつがソロ公演をやるときに手伝ったことから関わり出した。そのときも「舞台美術をやりたい」って言って回っていたんで、和栗さんに「それじやあ俺のところで勉強するか」って言われて、舞台のイロハのイの字もまったく知らないまま飛び込んでしまった。
篠原 これまで何度か公演をやっているけれども、それは、演劇のための美術なのか、それとも自分の美術のための演劇なのか、どちらの意味合いが強いんだろう。
幸 10年くらい前に「Cheap Thrill」という集団をつくって舞台をやってきた中で、舞台のつくり方ということでは、真っ当な演劇のつくり手からみると、それは「芝居じゃないです」と言われるのね。何でかというと、普通の芝居というのはまず台本があって、そこから演出家がイメージをつくって、「美術はこんな感じにしたい」と美術家を呼んでくるというようにかたちが決まっている。でも僕らの場合は、最初中身は決まってないけれども今度の作品のタイトルはこれがいいっていうように出して、それをキーワード的な散文にまとめて関係者に回して、台本にしても音楽にしても、それぞれがそうしたコンセプトからまず勝手にイメージを膨らませてみる。僕は僕で美術のイメージを膨らませていくという作業をして、ある段階でそれを持ち寄る。それまではお互いが何をつくっているか全くわからない、何が出てくるかはわからなくて、それを一個のものにまとめるというつくり方。その中では、役者にしても演技や衣装の発言権はイーブンで、お互いがいろいろなものを持ち寄る実験の場として、それをごった煮のように混ぜてしまう。でも最初は、本当に舞台作品として成立するのかというように言われたりもするんだけれども、僕自身には「大丈夫、まとめてみせる」という根拠のない妙な自信があって、それで一個の舞台に仕上げてゆく。そこには演劇をつくっているという感覚はなくて、音楽、美術、衣装、照明から、役者の声、役者の動き、姿というもの全部が一個の場に集まって一つの時間の中で同居している。その状態自体がある種の作品だと思っていてね。
篠原 「場」をつくるということだね。
幸 たまたま舞台という形を借りているだけで、芝居や演劇をつくっているわけではない。あとは、舞踏の世界にいたせいかもしれないけれども、役者のしぐさや所作については細かく指示を出したりする。
篠原 「ことば」を使って最初にイメージを伝えると言っていたけれども、それと「アルマイトの栞」とは関連はあるの?
幸「アルマイトの栞」自体は、舞台のコンセプトと結び付けるんじゃなくて、純粋に文章が書きたいと思ってやり出したんです。
篠原 そこで想定されているのは、架空の空間かもしれないけれども、何かイメージの像ができてゆくという。
幸 ここで書き散らしている文章が、確かに何か空間のイメージを喚起するものであったり、具体的なオブジェを喚起するものであったりはするかもしれない。
篠原 そうしたイメージを自分の中で遡ってゆくのは、「水脈」の話とも繋がってくるような気がするけれども。
幸 ここに書いてみたいと思ったのは、自分の子供の時の体験をどんどん遡った時にたどり着く何かであって、そうした上で今も何かをつくっているような気がしている。そのベースになっているのは、ことばや知識とはあまり関係がなくて、子供の頃に好きだった色の使い方や形の組み合せであって、それは今でもほとんど変わっていない。三十数年間の中で自分なりにいろいろな価値判断や評価基準が入ってきて、ロジックな部分というのは変わってくるけれども、でも実際に絵の具とかで何かをつくるときに、好きな色使いは変わらないような気がするのね。そうした好みがどの辺りから出てきたのかという、イメージの「水脈」とか「井戸を穿つ」という、自分の中に一度降りていって汲み上げてみるというようなイメージがあってね。結局、ものをつくることに限らなくて、人は育ってゆく中でいろいろな知識が増えたり、いろいろな事が出来るようになってゆくけれども、それは実は、自分の中にいろいろな「他人」をつくってゆくというのかな。たとえば、自転車に乗れるようになった瞬間に、自転車に乗れなかった自分とハグレている、自転車の乗れない自分にはもう戻れない。九九が言えた瞬間に九九が言えなかった自分とはハグレてしまうというような、そういったことを積み重ねて人は年を取ってゆくと思うんだけれども、そのときに、もう一度はぐれてしまった自分の中の他人というものに会う、探す。一度なくしてしまった自分の中の水の流れを引っ張り出して見つけてゆく。
篠原 記憶の流転を一度堰き止めるということかな。
幸 何かの拍子に、十数年間忘れていた子供の頃の感覚が不意によみがえってくることがあるじゃない。そういった、自分の中でハグレているけれども自分から消えてしまったわけではないものを「水の流れ」に喩えている。そういう意味で、今回の作品は、誰かに見せることを前提にしたわけでもなく手が勝手に動いている子供の頃の落書きと何ら変わらない感覚がもとになっていて、そこに今の自分がものをつくるときの本質とか原点が隠れているような気がする。そういったものをあえて作品として並べて出してみようかなと。黒板をいっぱい作っているんだけれども、何を描こうか最初から決めているわけではなく、ぐしゃぐしゃ線を描き出して、そうすると何かの形に見えてくる。構図は全然気にせずに、色の使い方も、子供の頃にのめり込んだ、いろいろな色を組み合せて最後に全部それを擦ったときに出てくる色の流れのようなものを作品にしてみようというのがあった。やり出してみたら、二、三歳の頃から変わっていない。そういったものを作品として提示してみてもいいんじやないかと思ってね。本質的な落書きの部分を掴み出してみたらどうなるのかと。そうやって描いてしまったものは、それはそれでしょうがないっていうスタンスで、今回はつくっている。
 45×91×厚さ5.5cm縦長の合板の表面に墨汁を均一に塗布してつくった「黒板」に、クレヨンによる線をもとにしたイメージを描いた作品20点を、ギャラリーの壁面を1周するようにほぼ等間隔にワイヤーで設置して行われた展覧会。
 「絵」は、青、紫、赤、オレンジ、水色、黄色、緑、白、赤などさまざまな色彩が幾重にも縁取られながら、円や四角をもとにした不定形が集積して何かのかたちを連想させるように表されたもので、そこで使われる色身自体は鮮やかである。しかし、つや消しの黒の上にクレヨンという絵具の粒子が荒い画材で描かれることで、つくられた色の線の周りに黒板の「黒」が背後からしみ出して付着するようなイメージが生まれ、その結果、展示を遠目に見るとそれぞれの色彩の区別は曖昧となり、比較的色味の強い赤や黄色などの暖色が、四角の上では多数の板の隙間を乗り越えてギャラリーの壁面全体で連なり、一つのものとなるような印象を感じさせるのだ。
 ところでさきほど、線で描かれた不定形が集積して何かのかたちを連想させると記したが、それはたとえば、背中を向かい合わせて立つ二人の人物、幾人もの人が重なり合って立つ情景、十数個のパーツに分割された人体、無数のパーツが集積してつくり上げられたアンドロイドの身体、やはり無数のパーツによる身体の中心に人の顔が浮かぶ様、空間にまばらに散らばる身体のパーツの中に顔が一つ浮かぶ情景、「関節人間」のように十数個のパーツに分割されてつくられた身体が背を持たれかけて座る姿など、生み出されるかたちの中に「人間」の姿を見出すことができるもの、あるいは抽象的な形の中に人の「影」ともいえるような何かの存在が感じ取れるものが多数を占めている。
 幸は今回の展覧会を行うにあたって、自身の意識の奥底にある「水流」を探し当て、そこから彼が2、3歳の頃に得た色やかたちのイメージを掘り起こして作品のイメージを生成するということをテ−マとして掲げた。そこから推測すると、画面に現れた無数の不定形と黒板の色彩の内部に根を下ろすように描かれた線は、幸が幼い頃にとりこになったであろう色やかたちがおおもとにあり、その一方で、それらのパーツが集積してできた人を象徴するかのようなイメージは、三十数年を経て大人となった現在の彼が、幼い自分自身を見据えた末に現れたイメージを造形として表したものであり、これらの背景となる黒板の「黒」が空間に居並ぶ様は、色彩やかたちへの彼の思いが眠る記憶の領域そのものを象徴しているように思われてならないのだ。
Vol:4 小林宏道 『UNDER STRUCTURE〜Die Belriner U-barhnhof〜』(2004年10月に開催済) 目次に戻る
 私が初めて海外に出かけたのは、1991年の秋のことだ。最初に訪れた国はドイツで、共に日本を発った二人の同行者の内の一人が、今回展覧会を行う小林宏道だった。まず、モスクワ経由でフランクフルトに降り立ち、ハンブルグ、ブレーメンと列車で巡り、数日をかけてベルリンにたどり着く。当時のベルリンは、いわゆる東西の「壁」の崩壊から一年にも満たないころで、「旧西側」と「旧東側」との街の景観の落差は著しく、夜間に「Sバーン」と呼ばれる市電に乗っていると、旧東側に入ったとたんまるで境界線を引いたように暗闇になることに驚かされたのを、今でもありありと覚えている。そうした車窓風景の落差は、日中では地下鉄に乗ることで実感することができた。つまりこの場合には、旧東側に入ると駅の景観や路線の外壁が明らかに薄汚れて見えるのだ。これが、私にとって初めてのベルリンの地下の光景だった。そして、やはりこの時が初めての渡欧だった小林にとっても、最初のベルリンの「地下」体験だったはずだ。
 その後も小林は、今にいたるまで毎年のようにドイツを訪れている。もちろんそこにはベルリンも含まれており、東西ドイツ統合後、激しく移り変わり続けてきたこの街の変貌の様子を垣間見てきたわけだが、今回の写真展『UNDER STRUCTURE 〜Die Berliner U-Bahnhof〜』で題材となっている現在のベルリンの地下鉄の光景は、単にその構造や建築美を写し出そうとしたものであるだけでなく、彼がこの13年間にベルリンという都市、ひいてはドイツという国で体験してきた時間の総体の断片を示しているように思われてならないのだ。
 では、小林がドイツで体験してきた時間とは、いかなるものだったのだろうか。彼にとってのドイツとは、興味の対象や創作のための題材であることを大きくこえて、それを抜きにしては人となりを語ることができないほど重要なものであるといっても差し支えないだろう。私と小林とは大学の同級生としてほぼ20年の時間を共有してきた間柄であるが、彼は、知り合った当初にはすでにドイツ語を修錬し、またドイツ建築を研究の対象とし、ドイツ製品を常に身の回りに置くというのめり込みようだったことが思い起こされる。
 そして、「ドイツ」と相並んで小林が強力に興味を求めてきた対象が、さまざまな建築物および建造物の構造や、それらを含んで成り立つ景観の在り方、さらに、そこに現れる美しさであると私は考えており、それらに対する観察眼をもとに彼は、学芸員を勤める傍ら、1993年よりGallery ART SPACEにてモノクロ写真の作品を発表するようになる。

『THE LOST OF FIELD』と銘打たれた最初の個展(Gallery ART SPACE.1993年)では、小笠原諸島の父島の亜熱帯林に今も埋もれて遺る、旧日本軍施設の廃虚をモチーフにしたものをメインに、その前年の訪れたドイツの風景を加えた計15点のモノクロ写真を標本箱に収めて展示を行った。私にとってこの中で最も印象深かったものは、コンクリートの残骸に埋もれて建物の外壁のみが残る一枚の作品だが、ここに写されているのは単なる廃虚の景観ではなく、亜熱帯林という環境的な背景や、旧軍によって放置されて50年以上が経過しているという歴史的背景が絡み合って成り立つ唯一固有の風景であり、風景を取り巻くそうしたさまざまな背景に対する視線こそ、小林の創作の源泉なのではないかと私はとらえている。
 その翌年に開催した個展『A PHASE IN MUSEUM』(Gallery ART SPACE.1994年)で彼は、ドイツやフランスの主に自然系博物館の展示室を、動物の剥製をもとにしたジオラマや恐竜の化石、産業革命期の大型機械などの展示物と共にとらえて撮影した、計13点のモノクロ写真による展示を行った。これらの作品では、モチーフを正面に据えてほぼシンメトリーに表した構図が印象的だが、そこに見られるのは、博物館という建造物自体の構造と展示物とが合わさってつくられる無二の光景の美しさにほかならず、博物館とは展示物のための「箱」であるという特殊な状況が両者の結び付きをことさら強めることで、一点一点の画面には求心的な自己完結性が宿り、それは、建物を取り巻く状況に向ける小林の視線が十分に活かされ帰結したことによる表現だといえるだろう。
 『FROM THE PERSPECTIVE』と題された次の展覧会は、それから3年後の1997年に行われた(Gallery ART SPACE)。ここでは、建造物というモチーフからいったん離れ、遠景まで続いてゆく道路や荒れた造成地、重機の轍、路地などが被写体となったが、これらの作品で表された強烈なパースペクティブは、風景に対する小林のさらなる志向を示している。それは、建物と同じように風景にも構造があるというもので、景観の見え方、つまり風景の見かけの構造は対象との距離によって規定されるという(道を進んでゆくとシームレスに景観が移り変わってゆくことをみてもわかるだろう)、視覚と景観との関係の本質を示し、これが「パースペクティブ」という構図で表現されているように思われるのだ。

 その後も小林は、ドイツや韓国などで撮影した風景をもとに、景観の背後にあるバックグラウンドを視野に入れつつもその構造自体を実景から切り取って立ち上がらせるような作品を、時にはテキストを加えながら発表してきた。そして、私の許での個展としては7年ぶりとなる今回の展覧会では、最近撮ったベルリンの地下鉄の景観による写真をもとにして、その歴史的背景や、景観の構造に対して彼が見出した美しさが、小林にとっての「ドイツ」および「建築物」という、彼の表現の根幹を支える二種の対象への興味を集約したものとして私たちに示されるはずである。
 ところで、この被写体の歴史的背景に関して、日本で最初の地下鉄である「銀座線」の構内で彼が撮った写真が今回は参考資料として展示されることになっている。というのは、銀座線は1902年のベルリン地下鉄開通より遅れて1927年に開通しているが、ベルリンの地下鉄の技術やシステム、デザインをもとに完成したといわれており、それぞれが改築を重ねて今や消滅しつつあるその関連と差異が浮かび上がらせるベルリン地下鉄のオリジナリティーこそ、小林が被写体から見て取ったであろう、この風景の固有性を象徴すると推測されるのだ。
 大戦後の歴史の中で、激動にさらされながらも発展を遂げてきたベルリンの街。その断片が写された写真から、私たちはどのような思いを呼び起こされるだろうか。
                      (Gallery ART SPACE 篠原 誠司)
篠原 まずドイツのことについてですが、ドイツには随分頻繁に行っていますよね。何回行っていましたっけ。
小林 最初に行ったのが1991年で、15回かな。
篠原 そのきっかけは何なんですか。
小林 いろいろ記憶を辿ってみると一つはモノで、まず道具とか、機械とかのプロダクトですね。いわゆるドイツ製品というブランドイメージのもので、それを実際に手にした一番古い記憶は、鉛筆削りなんですよ。手の指先くらいの大きさの、金属の塊のもので、それは多分小学生くらいの記憶でね。それをきっかけとして、車や電気剃刀、コーヒーメーカーなんかの電気製品をはじめとして、キッチン用品から食器まで含めてドイツのものが今は身の回りにあって、こだわることによって、そういったものを探す楽しみっていうのも出てきている。
篠原 自分の場合には、小学生の時に父親が大阪万博で、ゾーリンゲンのオレンジ色の料理ばさみを買ってきてね。
小林 ドイツの風景や、ドイツ人の民族性への関心は後付けであって、どちらかといえばモノから入っていったというのが、記憶を辿ってゆくとある。
篠原 では、ドイツ語への関心についてはどうですか。
小林 ドイツ語というものを意識し始めたのは、中学校くらいの時に実はサイエンティストになりたくて、高校に入ると物理や化学を貪欲に勉強していて、そのときにどうしも出てくるのはドイツ語が多いわけ。特に化学を勉強しようとすると、ドイツ語や、ドイツの知識、英知が重要だという認識が中学、高校くらいで積み重なってね。
篠原 ドイツ語の会話についてはどうだろう。
小林 高校に入る前は意識していなくて、高校に入ってから独学でラジオやテレビのドイツ語講座とかでかじるようになっんだけれども、現実的にはドイツ人とドイツ語で話すという機会は、普通の高校生にはないわけで、基本的には知識や教養としてやっていたんですね。
篠原 写真についてですが、写真ももしかしたらドイツのカメラへの興味から始まったんですか。
小林 大学に入ってすぐのことで、映像の授業の課題がきっかけになっていて、自分のカメラを持って自分の手足のように使おうと思ったのが、「ローライフレックスSL35E」という非常にマニアックなドイツ製の一眼レフカメラで、それが最初でしたね。
篠原 写真の表現を人に見せようと考えたきっかけは何ですか。
小林 写真というと知り合い同士で撮り合うようなスナップ的なものや、古くは家族の記念写真とか、目の前にある手に届くような対象、オブジェクトを撮るという方が、取っ掛かり易くて安心感があるけれども、自分の場合にはそういった写真にはあまりなじみがなくて、風景の中に人物がいるとかそこにモノが置いてあるというのではなくて、ただ、だだっ広い地平線とか、水平線が見えるような海岸のだけの写真を撮っていた。
篠原 ずっと風景のシリーズを撮っているますよね。風景にはもともとどんな思い入れがあるんですか。
小林 一つだけ記憶にあるのは、中学校の頃に美術の写生の時間があって、学校の周りの風景を描きに行かされた。私が育ったのは「多摩ニュータウン」という新興住宅地として開発された場所で、山も削り尽くされて、非常に人工的な、映画のセットのようなところなんだけれども、そのときに何を描いたかというと、歩道橋とか陸橋がせり上がっているような部分を、その橋の真中に立って描いてね。それに近いものを後になって発見したんだけれども、それは岸田劉生の「切り通し」の絵で、そうした構図で陸橋を描いた。
篠原 つまり、建造物が入っている風景の構造だよね。
小林 構造というものを風景の中に見出そうとする努力を小学生の頃からしていたというのは自覚があるんです。
篠原 そうやって風景の写真をもとに展覧会を積み重ねてきて、今回の地下鉄のシリーズになるんだけれども、ベルリンの地下鉄の構造美や、一番の魅力はどこにあるんだろうか。
小林 構造美は非常に強く感じます。ロンドンとかパリとは地下鉄の初期のものを自分なりにいくつか見てきて、あと、自分が生まれ育った東京の地下鉄を日常的に見ながら考えたことは、ベルリンの地下鉄というのは、特殊ではないけれども自分にとって非常に魅き付けられる存在で、一つには、視覚的な美しさということではなくて、その場所、その空間にいたときに感じる「オーラ」のようなものを、1991に最初にベルリンに行ったときから感じていて、フランクフルトやミュンヘン、デュッセルドルフなんかの多少都会的なドイツの他の都市と比べても、ベルリンのものは特殊で際立っていると思う。
篠原 それはどんな部分ですか。
小林 一つは、ベルリンという都市自体の特殊性が影響しているように思う。ベルリンの街の成り立ちというのは、都市論的に考えても面白いものがあって、一番象徴的であって、この街に住んでいる人たちが口を揃えて言うのは「ベルリンというのはドイツであってドイツではない」ということで、非常にカオス的な要素がある都会なんだね。ベルリン自体は、現在のEUの中心になっていると言われてはいるけれども、19世紀までのヨーロッパから見ると、中心はパリやロンドンであってドイツはかなり辺境なんですね。ところがその先には、さらに辺境としてモスクワとかペテルスブルグがあって、田舎であるのにパリやロンドンよりも金持ちが住んでいる都市というのが、ロシアの首都だった。そこに挟まれた辺境がベルリンで、ドイツというのは歴史的にも、国情から言ってもいろいろな国に地続きで囲まれていて、挟まれた中でどうやって生き抜くかとか、どうやって抜きん出て列強の仲間入りをするかということを模索し続けてきた。それによって20世紀までには、新興勢力としてヨーロッパの中でもあだ花的な国家になるわけだけれども、そうした中で、中心的な都市として近代のドイツで象徴的に形成された都市というのが、ベルリンだったんだね。そして、ヨーロッパでは非常に早い時期に鉄道網が出来てきて、世界で最初に電車が走ったのはベルリンなんだけれども、ただ、一番最初の地下鉄はロンドン、二番目はハンガリーのブタペスト、そのあとはグラスゴー、ボストン、パリで、その後がベルリンだった。ベルリンは遅れていたけれども、追いつき追い越せで、それゆえにベルリンの地下鉄には一番新しいものとか、ほかの都市にはない要素(例えば自動改札とか…)を入れようということで、非常に実験的な要素が取り入れられた。
篠原 ベルリンの地下鉄がこの展覧会ではプリントとして表されるわけだけれども、一番プリントの中でアピールしたいことは何でしょう。
小林 今回は地下鉄駅についての展示なんだけれども、地下鉄駅について分類学的・博物学的にやろういう気持ちはなくて、たしかにそういった背景はあるけれども、その場所に実際に行って、そこに自分がいる、そこに駅があるという存在を意識したときに見えてくる風景や景観をどうやって見せるかということがテーマだから、必ずしもベルリンの地下鉄を網羅しているわけはないし、全ての駅を見せるつもりは毛頭無い。実際にそこに行って、観念的に、あるいは逆に感覚的に触発された空間のエネルギーというものをどうやって視覚化するかということ。それを見せるだけの要素を写真の中に入れ込むわけだけれども、ではその要素とはいったい何かと考えたときに、それは、自分のこれまでの表現に共通する「距離感」、つまり空間にいるときに自分を起点として見えてくる「距離感」である。駅の構造の中にいたときに見えてきたものの中には、視覚的な距離感ばかりじゃなくて、ベルリンという都市の持っている歴史的な距離感や、そしてそこに自分がいるという心理的な距離感とか、いろいろな距離感を表面に出せるようにというアクチュアルな部分に、今回の狙いがあるわけです。
 ベルリンの地下鉄をモチーフにしたモノクロ写真16点で構成された展覧会。各写真は、34.5×26cm横長の透明アクリル板2枚に24×16cm(六切)のプリントをはさみ、その周囲は、あるグループ分けをもとに赤、パープル、コバルトブルー、ブラウンの半透明トレーシング・ペーパーでつくった幅2.5cmの帯で囲み、その帯の下部に貼った1cm幅の通常のトレーシング・ペーパーには、撮影がなされた場所のデータ(路線名、駅番号、駅名、竣工年)が明記されるという形式で展示がなされた。
 今回モチーフとなったのは、U2(赤)、U6(パープル)、U7(コバルトブルー)、U5(ブラウン)の4路線(全10路線中)で、Nollendolfplats(1902)U2-12/Witterbengplats(1902)U2-11/Mohrenstra e(1908)U2-17/Standtmitte U2-18/plats-dan Laftbruche(1926)U6-22/Hallesches Tor(1923)U6-20/Hermannplats(1926)U7-28/Tempelhpf(1929)U6-24/Alexaderplats(1930)U5-01/Karl-Marx-Stra e(1926)U7-30の計10駅(全約100駅中)である。
 これらは、デジタル・カメラあるいは35mmネガ・フィルムで撮影したものをデジタル・プリント(ラムダ・プリント)して制作がなされているが、この展示のために小林は、今夏(2004年)ベルリンを訪れ、約20駅での撮影を行っている。ところで、各作品のキャプションに記された駅の竣工年を見るとわかるように、ここでモチーフとなっている各駅は、ベルリンの地下鉄が創業した1902年から1920年代後半にかけて完成しており、つまり大戦前のヨーロッパにおけるモダン建築の性格を持つものが被写体として選ばれており、それは、半ば造形的とさえいえる天井部の構造や、グレーのトーンで描写された石造りの質感によっても存分に感じ取ることができる。
 このように戦前に作られた部分をモチーフとすることについて小林は、「ベルリン」という、ヨーロッパの中にあって特異な歴史を歩んできた都市の、そうした歴史的な背景や都市の在り方を浮き彫りにさせるための一つの象徴として、ベルリンの地下鉄の光景を写真として表したということを語っている。そして、こうした意味を背負う風景が、彼独特の強烈なパースペクティブがもたらす向かい合った対象との「距離感」という、小林の表現における重要な要素に裏打ちされて、六切プリントという限られたサイズの中にあっても彼本来の造形性が凝縮されているのである。
 一点一点に近寄ってプリントをさらに詳しく見てみよう。それぞれの写真の中で印象的なのは、天井に取り付けられた蛍光灯やシーリング・ライトなどの照明の存在である。思えばこれらの光が、建築の構造の窪みに回り込み、また写真によっては光が床に映り込むことで、その建物の構造、もしくは彼が向かい合った風景の構造そのものが、光と影とのゆるやかなコントラストに照らし出されて浮かび上がってくるのだ。
 また今回の作品は、プリントの周囲が4色のトレーシング・ペーパーで囲まれるという特殊な額装が施されているが、実はこれは、ベルリン地下鉄の実際の路線図に当てはめられたカラーに準拠しており、これらの色彩と写真のグレートーンとの組み合わせ、ベルリンという都市の現在の広がりを、網の目のような「地下鉄路線図」の姿を借りて象徴しているように思われてならないのだ。
 なお今回の展示では、ベルリン地下鉄に関する歴史や、東京の地下鉄との関連についてのテキストに営団地下鉄銀座線神田駅と浅草駅の写真を加えた、「ベルリン地下鉄について」と題するパネルと、ベルリン地下鉄の特殊性やベルリンという都市との関わりと、1931年および現在のベルリン地下鉄の路線図を並べて表した27.5×33cm縦長のパネルが掲示された。
Vol:5 高草木裕子 『彩廊の寓話』(2004年11月に開催済) 目次に戻る
  「彩廊」とは、色彩が移り変わりつつ、あたかも「回廊」のように一つの空間をぐるりと取り巻いて覆うイメージを表す私の造語である。これはもとはといえば、今回の展覧会のプラニングを行う中で、数点一組の絵画作品をギャラリーの壁へ配置した際に、隣り合う作品の色合いが互いに連なって、ギャラリーの壁面を一周するある種の「色相表」のようなものを絵画の連鎖をもって創出させるという私の提案が発端となっっている。なぜこのようなプランを思いついたのか。それは、私が高草木の作品に対して、色彩をもとにしたイメージの力や可能性を感じ続けてきたからにならない。
 私と多くの作家との出会いがそうであるように、高草木と知り合うようになったきっかけは、彼女の個展記録のカメラマンをつとめたことで、「絵画という四角い枠の中で、色彩に支えられたかたちが小さな空間をつくり上げている」というのが、そのときに彼女の作品から感じたことだった。その後何度か高草木の作品の撮影を請け負うことになるが、こうした印象は常に変わることなく、曲線を多用してつくられるそのイメージは、たとえばソニア・ドローネーの絵画を思わせるときさえあった。
 ところで私から見る高草木の作品は、絵画として実にオーソドックスなスタイルを維持し続けている。私が考える「絵画」とは、「色彩とかたちによって作者固有の何らかのイメージが生み出されるもの」のことを指す(無彩色やオール・オーバーによるものでも、そこに現れるであろう質感が何かをイメージさせれば、それは「絵画」の範疇に入ってくる)。一般的には、平面であるか立体であるかということが、「絵画」であるかそうでないかを定義する第一の条件であるように思われがちだが、私にとっては作品の形状は決定的な要素ではなく、彫刻とは、現実の空間の中でそれ自体がモノであることを主張する存在であり、絵画とは人の視覚の中でこそ、その存在感が発揮される存在であるといえる。
 視覚によって捉えられるイメージを「イリュージョン」と呼ぶこともあるが、その根本にあるのは、やはり「色彩」と「かたち」にほかならず、それに加えて高草木の作品では、支持体の四角い枠の中でさまざまなイメージが繰り広げられることが、私がオーソドックスな絵画として感じる点であり、この「四角い枠の中でイメージが繰り広げられる」という部分こそ、高草木の表現の本質を示すのではなかろうか。というのは、彼女の作品では、曲線を伴ったかたちが色面として画面上に描かれるが、四角い枠からそのかたちを切り取った跡の背景の部分も、あるイメージを担った色彩をもって表されており、描かれた「かたち」と、その周囲のもう一つの「かたち」とが、二種の色彩もしくはイメージのバランスの中で互いに密接に絡み合う中に第三のイメージが生まれるという点が、彼女の作品の最も大きな特徴であるからだ。そしてこれは、「色彩」と「かたち」との関わりと並んで絵画にとっては重要な要素の一つである、背景とモチーフとなるイメージ、いわゆる「地と図」との関係を、実に明確に示すものだともいえるだろう。
 ではこうした特徴は、高草木の作品の中に実際にどのように現れるのか。彼女が2003年にGallery ART SPACEで行った永瀬恭一との二人展『形景』では、F50号の縦長の画面に、「巻き貝」のようなものが天頂に向かって渦を巻いてゆくようなかたちをモチーフとして、それぞれは薄いピンクから色鮮やかな赤で、その周囲の背景は、赤や紫を基調に描かれ、その組み合わせによって、時にはモチーフの部分が切り取られたように強調され、またある時には背景の部分が浮かび上がるように見えるという、地と図の双方が交互に主題のイメージとして感じられるような4点の絵画作品を並べて展示を構成した。
 ここでクローズ・アップされるのは、もちろん色彩とかたちとの関係だが、同系統の色を少しずつ違えて描かれたこの4点が組み合わさって並ぶ様は、一点一点の四角い枠の中の絵画空間を超えて、私たちの視覚の中にさらに「第四」のイメージを新たに生み、そうしたイメージの生成を目の当たりにするにつけ、冒頭で記したような、隣り合う作品同士の共通性や差異をもってギャラリー自体が一つの絵画空間になり得るのではないかという発想が沸き上がったのである。
 今回の展覧会で高草木は、グリーン、ブルー、オレンジをはじめとする比較的鮮やかな色をもとに、色彩や濃淡の異なる複数のイメージが曲線によるかたちをもって一つの画面を分割しつつ、隣り合う作品同士をゆるやかに繋ぐように、それぞれの背景として現れる「かたち」をイメージ上では地続きとさせることで、展示作品すべてを一組として、色彩とかたちとが複雑に絡み合う空間を創出することを一つの目標としてきたわけだが、ここで生み出される空間自体のイメージとは、高草木が展示の到達点として意識の中であたためてきたであろう一つの「物語」であり、その空間に身を置く私たちは、色やかたちに対する個々の体験や志向に応じて、そこからおのおの無数の「物語」を呼び起こされるのである。
篠原 色とかたちではどちらが先に出てくるんですか。たぶん絵によって異なってくるとは思うんですけれども。
高草木 かたちかなあ。頭で描いた大まかなかたちのイメージがまずあって、次に絵の具を絵を選ぶわけです。
篠原 かたちに色を当てはめてゆくような感じなんでしょうか。
高草木 当てはめるというところまでは、最初からきちんと設計していないかな。
篠原 たとえば一枚の絵の中で、かたちに応じて段階的に色が重なってゆくとして、その重なり方は制作の過程で決まってゆくわけですか。
高草木 かたちに応じて変わってきますね。
篠原 つまり、かたちが決まったら色も決まるわけですよね。
高草木 でも、重ねて別のかたちが入ってきたりすると、またそこで違う色を使わなければいけなくなったり・・・。
篠原 その「かたち」なんですけれども、何か具体的なものに触発されて生まれるんですか。去年の二人展(永瀬恭一との展示、Gallery ART SPACE.2003年)の作品では、「巻き貝」のようなイメージがありましたけれども、ここではかたちが結構はっきりしていましたよね。
高草木 何か具体的なものを見て、「これを少しアレンジして描こう」というような触発はあまりないんです。自分の中でうーんと考えたときに出てきたものなので。
篠原 それが出てきた後に、自分の中で具体的なものにつながってゆくということなんでしょうか。作者が意図しないところで誰かがかたちとイメージを結び付けるという部分も、当然大きいと思うだけれども。
高草木 そうなんです。
篠原 では、現実の中のものに偶然触発されるんではなくて、あるイメージをつくるために、それに見合ったイメージを導入してくるということもあるんでしょうか。モチーフが自分の意識の中にまずあって、そのモチーフが具体的なものであったり、具体的なものを象徴していたり、それに向かってかたちが決まってゆくというような、つまりどこに向かってかたちができてゆくかということなんですが。
高草木 抽象的な言い方をすると、「伸びる」とか「沸き上がる」とかということがあって、それで縦長の絵や上に向かってゆくような絵が多いんです。植物的なものもそれで多いと思うんですけれども。
篠原 ただかたちをつくるというよりは、現実の空間のかたちを模倣するということになるんでしょうか。つまり風景があって、その風景には、たとえば上に昇ってゆくにしても降りてゆくにしても広がってゆくにしても、構造があるじゃないですか。
高草木 風景を模倣することはほとんどないと思っているんです。
篠原 風景というよりも、現実の空間が持っている性質というか、たとえば自分の意識の中にいろいろな記憶があって、そこに向かって引っ張られてゆくというんでしょうか。そういった、記憶をもとにしての模倣なんですが。今話を伺っていて、イメージのもとに対してそう受け取ったんです。
高草木 絵とは別の話なんですが、「私はこの時にこういうふうにしていたな」「これって前にも同じシーンがあったよな」ということってよくありますよね。自分の中の気持ちとか希望のようなものを少しでも表現できればいいなあと思うところはあるんですよ。
篠原 記憶ではなくて、思考を何か別のかたちに持ってゆくということなんでしょうね。
高草木 持ってゆきたい、ということなんです。
篠原 色についてなんですが、かたちからまず決まるというところでは、実際には好きな色とかあると思うんですけれども、作品それぞれに配色された色に対して、何かもとになる具体的なイメージというものはあるんでしょうか。それとも、ただ造形として「配色された」ものなんですか。
高草木 配色という感じの方が強いと思います。

篠原 色とかたちとの関係ということについてはどう思われていますか。自分の作品についてでもいいし、美術一般ということでもいいんですが。
高草木 補色をすごく意識していたのが出発になっているんです。何かの色を使ったらその反対色をどこかに入れようというのが卒業した頃はあって。今もどこかに少しは残っているんですけれども、それほどはきちんと使わなくなって、単一色に近い配色も多くなってきたんで、そういったことはある意味どうでもよくなっていたんです。でも、「際立たせる」ということでは、同じような色だったら濃淡とか、色調の違いで引き合うようにしようとかということは考えているんです。
篠原 「引き合う」ということについてですが、高草木さんの作品では背景と主題の関係が気になっていて、切り抜かれたかたちの周囲が実は主題である場合もあるというイメージが私の中にはずっとあるんですが、実際の制作の段階でそういった意識はあるんでしょうか。「背景」ということばはもしかしたら当てはまらないのかもしれないけれども、描かれるイメージの「裏」の方をかなり意識するということですが。
高草木 もし真中しか必要ではないんだったら、そのかたちだけ切り抜いたキャンバスにするのが一番正しいということになってしまうんで。
篠原 たいていの絵画作品ではかたちを際立たせるために背景があるじゃないですか。そういうものとは明らかに違うという認識はあって、背景のほうが場合によっては主題的なのかなという気がしているんです。つまり、背景の方で何かの方向性が示されるという点が、高草木さんの作品の大きな特徴であるような気がするんですが。
高草木 それは自分では気づいていなかった点なんですけれども、回りの部分がいろいろ物語るようなことが多いのかもしれないですね。
篠原 どうしてだと思いますか。
高草木 周囲をないがしろにしたくないというところがあって、回りの部分を一生懸命描き込むんだと思うんです。その結果が、同等な重みかそれ以上のものになったかどうかはよくわからないんですけれども。
篠原 今回の作品についてですが、展示全体で一つのイメージを表すというテーマを最初設定しては始まったわけですが、一点一点の作品ではなくて、その全体のイメージということに関して目指したものは具体的にあるんでしょうか。配色ということがまず第一にあると思うんだけれども、それを超えたところではどうでしょう。
高草木 最近の展示では,何点かの作品をほとんどは変えないけれども微妙に変えたり、同じようなかたちで背景だけ変えたものをやって、でもそこまで行ってしまうと、デザイン的というか・・・。
篠原 バリエーションということですか。
高草木 そう。広がりがなさ過ぎて。最初から点数を決めてつくればそれなりにできるけれども、がちがちになってしまうと思ってね。だから今回は、もっとフレキシブルにやりたいと思ったんです。少しやりすぎてしまったかもしれないんですけれども。
篠原 でもやり過ぎた場合は、それはそれで到達点が違うと思うんですよね。最終的に、全部の作品を合わせたときにどこに到達しようとしているのかということなんですが。
高草木 自分の中では今までよりも変わったイメージが出てきていて、そういった不思議な深みのあるものに全体でなってゆけばいいかなと思っているんです。
篠原 今回の作品では、割と「層」が別れていますよね。たとえば全部を並べたときには、別の絵の別の部分と層が重なったりするわけで、そういった、見かけの上での前後の深みということなんでしょうか。
高草木 見かけ上の前後の深みということでなくて、大地の慈愛とかそういうイメージなんですが・・・。イメージが自由に広がっていくような巾の広い作品群になればいいと思っています
 80×130cm(M60号)縦長のキャンバスに、植物の「芽」のようなかたちのモチーフおよびさまざまな色彩の背景とを組み合わせ、キャンバスの側面にもイメージが描かれた、油彩による11点の作品による展覧会。
 これらの作品では、それぞれの画面の下端やや左寄りから茎のようなものが細長く伸び、ほぼ中央に「芽」のかたちが配されているが、その内側は、単色で埋められたものや背景となる部分の色彩がそのまま透けたようになったもの、それ自体が存在感を強く主張するように先端部に向かってタッチが流れたり重なり合うタッチで覆われたものなどさまざまである。また、それを囲む背景は、タッチをもってほぼ単色で表したもの、小さな曲線を積み重ねたような不定形のかたちを組み合わせたもの、波形あるいは円弧をもとに複雑なかたちが表わされたもの、さらには鮮やかな色彩の円形や楕円形のドットが曲線に沿って規則的に並ぶことでイメージが形成されるものなど多岐に渡っている。
 ところで今回の展覧会では、展示される作品同士の色彩が影響を及ぼし合うことで、互いが視覚的なイメージの上で地続きとなり、それらがギャラリーの壁を取り巻くように連なって全体で一つのイメージを生み出すということが当初の狙いとして設定された。このテーマをもとにあらためて展示を見回してみると、この狙いとは異なり隣り合う同士が地続きとなるようなイメージは希薄である。しかし意識をさらに集中させてみると、向かい合う作品や対角線で結ばれた作品同士が、一対一だけではなく時には複数のベクトルでつながりながら、会場のいたるところで作品同士の関係性を築き、そこではあたかも、糸が複雑に交差するように、色彩とかたちをもとにした新たな空間のイメージが創出されるのである。
 ここで、高草木の作品に現れる色彩とかたちとの関わりについて考えを進めてみよう。前述したように今回の展示では、主なるモチーフである「芽」のイメージが、タッチは使われずに背景からかたちを切り抜くようにして、そのリアルなシルエットのみが背景との関係性の中で際だって表されたものと、一方、「芽」の内側に何らかのタッチを重ねることでそのかたちが立体的に表されたものの二種類に分けられるが、前者では、それぞれの要素は単彩を主とした、あるいは多数の色を使いながらも淡い色彩をもとにすることで統一されて表され、後者では、モチーフの存在感を拮抗させるように波形やドットなどの強いかたちが、やはり原色に近く強い色彩で表されるように思われる。
 一般的に言えばこの両者の差は、「透明」と「不透明」という違いで表されるのかもしれないが、この2種の様相は「芽」という統一されたイメージでつながることで、空間に氾濫する色彩を従えて一つとなり、これらを取り巻くさまざまな「色」、さらにはこれらの「色」を具体的なイメージとして成り立たせる「かたち」は、こうした一つの大きなイメージの源となるのである。そしてこのような関係性の中にこそ、11点の絵画のかけがえのないつながりを感じ取ることができるのだ。
Vol:6 島村美紀 『after light』(2004年11月に開催済) 目次に戻る
2004年7月5日、私は島村と共に、硫黄鉱山の廃虚として知る人ぞ知る、群馬県山中の「小串鉱山跡」にいた。廃虚を目指して島村と行動を共にするのは、2年前に訪れた宮城山中の変電所跡以来二度目のことだ。小串鉱山への道程は容易なものではなく、前回訪れた5月下旬には積雪のためにもう一歩のところでたどり着かず、さらに遡れば、島村はそれ以前にも、濃霧などのために三度道を阻まれており、結局五度目にして、都内から車で数時間を要するこの地にたどり着いたのだった。そしてこの日、徐々に濃くなる霧の中を、二人の同行者と共に私たちは、屋根が抜け外壁と機械類の残骸だけが残る鉱山跡の変電所の廃虚に足を踏み入れた。
 山形での撮影行では、私自身も作品制作を目的としていたため、カメラを手に撮影のアングルを求め歩いたのだが、島村に同行しその撮影の瞬間を見届けることが目的の今回は、カメラを構えシャッターを切る彼女の姿を、そうした撮影の様を人に撮られることはさぞかし迷惑だろうと思いつつも、数枚ほど写真に収めたのである。
 島村の撮影の現場を、その姿ごとカメラに収めようとしたのには理由がある。それは、撮影がなされた瞬間に彼女の周囲を覆っていたであろう、その場の「光」を私自身が記録することで、島村がそこで体感し感じ取った被写体となる光景に対する「何か」を、わずかでも共有したいと思ったからだ。

 ところで今、撮影がなされた場で島村を包む「光」を写真に残したかったと記したが、島村の写真表現に対して私は、撮影の瞬間に彼女がとらえた「光」が、現像・引き伸ばしといった暗室作業を経て、それ自体が「光」の凝固体といえるような、プリントとしてのもう一つのかたちに再生したものだという印象を抱き続けてきた。
 島村の作品では、プリント上の光景は、もとの現実の姿とは大きくかけ離れた様相をもってモノトーンで現れるが、その際立った特徴の一つは、部分的にセピア色に調色された色調だ。たとえば今回の撮影のように、機械類の残骸が取り残された場所ではそういった機器や計器のエッジが、廃屋の室内では机などが、転じて屋外の光景では枯野の草々などがセピア色となってその存在感を主張し、結果としてそこには、島村が向かい合った素のままの光景ではなく、彼女がそこに注いだであろう視線の行方、ひいてはその光景に対する意識そのものが、目に視えるかたちとなって顕在化するのである。
 多くの作品で見られるもう一つの目立った特徴は、45度におよぶことさえある水平線の激しい傾斜だ。ときとして広角レンズによる強いパースペクティブを伴い、遠目に見るとあたかも幾何学的な抽象画のよにも感じられるこうした手法自体は、セピア調色を含めてもちろん島村独自のものであるというわけではない。しかしそれにしても、プリントに現れた画面は島村以外の誰のものでもない独特の様相を表し、さきほど述べたような彼女が光景に向けた視線や、撮影の瞬間に彼女を取り巻いていたであろう「光」の存在を、その先に見て取ることができるのだ。

 ここで、この「光」という要素と島村の表現との関わりをもとにして群馬での撮影行の話に立ち戻ってみよう。
 撮影から帰ってしばらく後に、島村から送られてきた一枚の写真がある。計器類がアップで写る、今回の展覧会のDMに使われた写真だ。ここでもやはり重要なモチーフは、一部がセピア色に染められ私たちの目を強く引き付けるが、そうやって彩られた部分は、かつて撮影の瞬間に、島村だけではなくそこに同行した私自身をも取り巻いていた変電所跡の「光」そのものをリアルに思い出させ、暗室作業の後にかたちとなって印画紙上に定着したもう一つの「光」は、島村の意識が向かい合った現実の光景の中からクローズ・アップして切り取った、「世界」の断片としてとらえることもできるのではないだろうか。
 そして、そうやってかたちとなった「光」に思いを馳せてみると、それはあたかも、氷の結晶が溶けて水となり拡散する過程を逆に辿るような、島村に見出された現実の中の「光」が集束して凝固し、永遠のものとなる様が思い描かれるのである。
篠原 テキストには、実際に写真を撮っているときに周りの光が作品のもとになるということを書きました。島村さんの作品は、晴天の日ではなくて薄曇りの時に撮られることが多いですけれども、それぞれの光に対してどういった質の違いを感じているんですか。
島村 やわらかい光の方がイメージに合っているようです。
篠原 光が眼で感じられるという状態は、作品にはあまり良くないということでしょうか。光が見えているんではなくて、光が漂っているくらいの感じかな。
島村 そうですね。
篠原 DMの写真はそうだけれども、作品の中で、クローズ・アップしているときと引いて撮っている時とに分かれますよね。その違いについてはどう思いますか。
島村 あまり意図してはやっていないですけれども、そう見えるでしょうか。
篠原 撮っているときは意図していなんでしょうけれども、撮ったものを作品として選ぶ作業の中では、そうした意図が含まれているような気がするんです。多分、展覧会の構成を考えた上でのことが大きいと思うんですけれども、撮っているときの意識は全く一緒なんでしょうか。
島村 同じものですね。あまり意識はしていないんです。
篠原 このDMの写真には、計器が写っていますけれども、ここでは計器を対象として撮っているということではないんですよね。
島村 多分そうだと思います。
篠原 計器を撮る意識が全景を撮る意識と変わらないとすれば、実際には何を撮っているんでしょうか。何に眼が向いているんだしょう。
島村 計器より、その後ろの空間にいかに意味を持たせられるか、というような覗き方をしているような気がするんです。
篠原 視線がどこかに集中しているんではなくて、見えている範囲全体を切る取るということでしょうか。そうなると、そこには6×6判で撮っていることが関係してくるように思うんです。実際に見えている視覚は確かに横長であるとは言われているけれども、身体で感じる視覚ということになると、正方形であるような気がするんです。ところで、6×6を使い始めたきっかけは何ですか。
島村 横長が嫌いなんです。それに尽きますね。
篠原 どうしてでしょう。横長というのはいかにも切り取っているようで、現実っぽくないからかな。
島村 縦になったり横になったりすることで、そこに何か意図が出てくるじゃないですか。一発で絵を決めたいということもあるんですけれども。
篠原 確かに、横長だといかにも絵を選んで撮っているという感じになりますよね。
島村 撮るときはウエストレベルのファインダーで見ているんですけれども、縦位置や横位置にするとカメラ位置を変えなければいけないじゃないですか。ファインダーでダイレクトに見た絵をただただ撮りたいというのがあって、6×6はそれが撮れるカメラなんです。
篠原 ウエストレベルでは、左右逆になっているけれども、ファインダーに写っている世界が全てだという感覚がありますよね。それともう一つ。島村さんの作品では、水平線が傾斜することがとても多いですよね。それは、撮っているときには意識していないのかもしれないけれども、こういった傾斜も含めて、作品が完成した状態が直感として最初に思い浮かぶんですか。
島村 思い浮かびますね。
篠原 実際に見ている景色と作品は全然違うとして、たとえば調色にしても、いろいろなことが後付けされて作品が出来あがってくると思うんだけれども、その完成図が撮影の時にはすでに意識の中にあるんでしょうか。
島村 調色についてはそういう意識はありません。それは後工程の問題なので。撮るときは直感的に曲げてしまっていると思うんです。真っ直ぐにしているのがぴんと来ないんです。
篠原 それはどうしてでしょう。水平線が傾斜するといえば森山大道の写真があって、それはいかに対象を見ずに撮るかということがもとになっていますけれども、島村さんの写真はそれとは明らかに違って、造形的な思考が働いているからでしょうか。
島村 そうですね。納まりがいいのが斜めだったというのがあって。
篠原 風景の中での対角線が重要なのかもしれませんね。そうなると、余計に四角は取れてきて、円に近くなりますよね。考えてみたら、カメラのレンズに入ってくる画像は正円ですものね。
島村 そうかもしれませんね。円形だといいなと思うことがたまにあります。でも魚眼レンズだとちょっと違うんですけれども。垂直にとらわれたくないなということが大きいと思うんです。
篠原 実際島村さんの作品には、風景を表しているような感覚を感じさせないものがありまよね。「場所」自体を撮っているような気がするんです。実際には風景から「場所」を切り取っているわけですけれども。もう一つは調色についてで、今回のテキストには、調色自体が何かの「光」を後付けで付け加えたものであるというように書きましたけれども、それは、撮ったときの「光」の記憶だと思うんですが。
島村 儀式というわけではないんですけれども、命を吹き込みたいなというのがありまして。
篠原 「光」は何の象徴になっているんでしょう。撮った現場の中の何かだとは思うんですが。
島村 初めて調色したのは作品に合う色を出したくて、それで茶色を使ったんですけれども、今は違う感覚でずっと色を付けています。
篠原 それが何を表しているかは不明なんですね。
島村 不明ですね。
篠原 部分的に調色するというのは、たしかにそうやっている作家はほかにもいますけれどもやはり独特だと思うんです。
島村 何もないよりはこの方がイメージに近づきやすいんです。
篠原 そのイメージは、撮っているときではないとすればどこから出てくるんでしょうか。現像ではなく、引き伸ばしている時ということですか。
島村 そう。引き伸ばしているときが私の作業では多分一番重要な部分で、暗室の中で焼いて、定着をして、電気を点けたときに、これはだめで、これは良くて、ここに色を付けたいというのが出てくるんです。暗室が一番重要なんです。撮っているときは正直言って何を撮ったか覚えていないくらいなんです。
篠原 撮るのがあのスピードだと確かにそうですよね。
島村 撮らされているような感覚で撮っていて、ベタ焼きをやるまではわからなくて、帰りの道中もどうだったかなって。
篠原 何を撮ったかは覚えているけれども、実際に何が写っているかはわからない・・・。島村 そうですね。
篠原 ところで、なぜ「廃虚」なんでしょうか。きっかけはあるんですか。
島村 実家の近くに立川の米軍基地があるんです。小さい頃からそこを見ているのが好きで、落ち着く場所だったんです。
篠原 基地というと、どことなく崩れている景色ですよね。
島村 そこにぽつぽつと廃屋が点在していて、樹木に囲まれた特異な場所だったんです。そこだけが異空間のような感じがしてすごく好きで。大学に入って写真を選択して、卒業制作で何を撮るかとなったときに、一番自分が興味のある場所を取ってみようと思ったことから始まったんです。
篠原 あとは一直線ですか。「廃虚」を選んだのはたまたまなんだろうけど、必然の結果なんでしょうね。子供の時には廃虚に魅かれることはなかったんですか。つまり、写真の対象として廃虚への執着が始まったんでしょうか。
島村 そうですね。でも、子供の時もぼーっと見ているのが好きだったんですよ。自転車で走っていて、何かが吹っ切れるような場所だったんです。
篠原 なぜそのまま一直線に魅かれていったんだと思いますか。
島村 古いところなんですけれども、私にとっては新しいところだという・・・。
篠原 廃虚全般がということですか。
島村 そうですね。いろいろな面を見せてくれるところで、突き詰めても飽きませんね。篠原 今度展示する作品ですが、小串鉱山と、もう一つは・・・。
島村 佐賀にある造船所の跡なんです。
篠原 今回展示するプリントの要点はありますか。自分の中でこういうテーマを持っているとか、今までの作品との違いでもいいんですが。
島村 「湿度」かな。撮っているときが夏だったので。あまり夏に撮ったことがないんですよ。
篠原 湿度はプリントにどう現れてくるんですか。
島村 私にとってはすごく重たい写真なんです。でも湿気の中の光はすごくきれいだったんで、いいなあとあらためて思いました。いままではずっと枯れた感じにこだわっていたんで、乾いたときに撮っていたんですけれども、夏の湿度も生き生きしていていいもんだなと思ったんです。樹も鬱蒼としていて。私にとって草木とかの樹木はとても大切で。枯れ切ってしまうと撮る気にはならないんですけれども。
篠原 対象の中では「脇役」という感じでしょうか。
島村 今回は「主役」までゆくくらいの感じで、それもいいなとすごく思って。私の中で、建物よりも植物のほうがだんだん比率が高くなってきているような気がずっとしていたんです。それをどうフォローしてゆこうかなということがあって、それが今回の作品につながっているような気がします。
 画面サイズ29×29cmのモノクロ写真を、主に45×60cm縦長でガラス無し、つや消し黒のマットで額装された作品13点および、14×14cmのプリントを25×25cmの木材による写真立て風の額に収めたもの、9×9cmの作品を横に3点並べて54×24cm横長のフレームに収めたもの(いずれもガラス無し)計15点で構成された展覧会。
 島村の作品の大半がそうであるように、これらの写真は廃虚の光景をモチーフとしており、今回の展示では小さな額の2点を含む7点が群馬県の小串鉱山(硫黄鉱山)跡、他の8点が佐賀県・伊万里の造船所跡で撮影がなされている。この内小串鉱山跡には私自身も同行しているが、ここでは、鉱山の入口に位置する変電所跡が主な被写体として選ばれた。鉄の鋼材を組んだ重々しい機械類が視界を遮る光景、施設が大きく崩れた様が、骨組みだけを残す天井から注ぐ光や窓から覗く樹木によってなおさら強調される光景、何かの機械の計器がクローズ・アップされた光景、この計器のガラス面に外の樹木の一部が映り込む光景などが写し出され、2点の小作品に関しては、硫黄が覆う剥き出しの山肌および、幼稚園の園庭に残された回転遊具を3連でとらえた光景が表されている。
 また、伊万里の造船所をモチーフとするものでは、巨大な建造物の内部に樹木が生い茂り、天頂に覗く円形の開口部からぼーっとした光が注ぐ光景、倒木の枝が壁の開口部を通して外に伸び建物を囲む樹木とつながる光景、建造物の外壁に蔦が絡まり草叢が入口をふさぐ光景、広大な建造物内部に柱が立ち並び、一脚の古びた椅子が放置されて存在感を放つ光景、この椅子がクローズ・アップされて樹木に囲まれる光景などであり、それぞれの作品に対して私はいくつかの所感を持つにいたった。
 今回の作品は、以下の傾向に大別できると思われる。一つは、小串鉱山で撮られた建造物の内部空間を示す3枚の写真における、島村自身が撮影の現場で向かい合った空間そのものの存在が、交錯する鋼材の影を示す漆黒の色彩をもとに一種の閉塞感が表されたもので、そこではそれに加えて、この黒いラインの交錯が正方形のフォーマットと相まって、幾何学的な抽象絵画にも似た高い造形性を生み出しているといえる。
 もう一つは、鉱山跡での「計器」をモチーフとしたもの、あるいは造船所跡での椅子をクローズアップしたものにおける、彼女の視線の行方そのものを示すような写真で、ここでは、被写体に対してではなくその背景に向かう意識を重視しているという島村への事前のインタビューのことばを裏付けるように、撮影時の彼女と対象との距離感が明確に表され、そのもとを辿ればそこには島村自身の在処を感じ取ることができるのである。
 三つ目は、造船所の広大な建造物をその構造諸共とらえたもので、ここでも、その距離感の長さこそは対極にあるにせよ、クローズ・アップされたものと同様に対象と彼女との距離は明確に表され、そこでもやはり島村自身の存在が浮かび上がるのである。
 四つ目は、植物が茂る造船所の内部に光がかすんで注ぐ3点の写真で、ここに表されるのは、表向きには島村がインタビューで答えているように植物の存在感であるが、実際に画面を覆うのは、空間全体に浸透するように建物の内部を巡る「光」そのものであり、ここに描写された植物は、一枚一枚の葉の表面に光を受けることでこの「光」を象徴する存在となり、それがこの3点の色彩の美しさを特に際立たせているといえるのだ。
 もう一度展示全体を振り返ってみよう。今回の展覧会は、撮影の現場で島村を包んでいたであろう「光」が造形となる過程を追うことをテーマに企画がなされたが、最後に記した造船所跡の3点にはおよばないにしても、彼女の作品はその画面の全てが時として微弱な光に浸され、それらは、彼女の作品の多くで部分的に施されるセピア調色が増幅させる造形性も加えて、彼女の記憶の中の「光」を私たちに感応させる。そして、視覚を経て観る者の意識の中に入り込んだ造形としての「光」は、日常では気の留めることの希な「光」の存在そのものを、ある「かたち」として感知する力を時として覚醒させるのである。
Vol:7 永瀬恭一 『tracing expressio』(2004年12月に開催済)  目次に戻る
「創造」とは、何を源として、それがどのような経緯をたどって現実の場に姿を表すのだろうか。その源にあたるのは、作者が長い年月をかけて意識の中に蓄積してきた、さまざまな記憶や思考である。それは素のままだと、一個人にとっての「何か」でしかないが、日々私たちは、現実の中のさまざまなモノや事象から無数ともいえる働きかけを受けつつ生を営んでおり、創作のための意識が働くにせよ、あるいは無意識的であるにせよ、そうしたものが意識の中に眠る「何ものか」を揺り起こして両者を結び付け、そこで初めて「作品」が現れることは疑いのない事実であろう。
 今回の展覧会『tracing expression』のプラニングで、私は永瀬に対して、日常の中で受けたさまざまなことから色やかたちを解き起こし、そこから制作を試みてほしいという提案をまず最初に行った。なぜなら、抽象的な色やかたちで表される彼の作品のおおもとを、今回の展覧会を通して具体的に知りたいと思ったからだ。それに対して永瀬は、美術館やギャラリーで日々行われているさまざまな展覧会を見て廻り、そこで向かい合った作品や作家たちの思考、手法から得た印象、批評をひたすら文章として書き記し、その中から自身の創作に対して道標となるようなものや、逆に戒めとなるようなものを分類した上で、それらを自身の創作の過程の中にある種のスパイスとして取り入れてみたいという答えを返してきたことからこの企画が始動したのである。
 
 私と永瀬との最初の出会いは5年ほど前で、個展の会場として彼がGallery ART SPACEを使ったことがきっかけで、その際に展示した作品は、四肢や肘、膝の関節から先の部分や顔の造作が省略された人体の漆黒のシルエット、あるいはボンテージ・ファッションを思わせるような衣類をまとう女性などをモチーフとし、その周囲は身体にまとわり付く「影」を思わせる黒の線やしみで占められた、1m以上もの大判サイズの銅版画作品でだった。それから3年後に行った個展では、作品の様相は抽象的なものへと一変し、綿キャンバスを裏張りした後にジェッソで下地をつくり、その上からアクリル絵具で「染み」のようなイメ−ジを表した横幅3m近くの大画面の絵画作品を発表した。
 現在彼が制作するものとほぼ同じ手法に基づくこれらの作品は、燈色、朱色、黄色などの絵具をキャンバスの布地に染み込ませるように薄く伸ばし、段階的に数種類の濃度差を付けながら刷毛などで塗布することで制作がなされるが、そうすることで生まれる環礁もしくは等高線のようにも見える色彩の濃い部分は、絵具の「染み込み」がつくる半ばぼやけた境界線を境にして、その周囲に広がる薄い色彩の部分とどちらが上でどちらが下か判別できないような重なり方で交錯し、それは、「色彩」と「かたち」とのかかわりの中でモチーフと背景が全く等質のものとして扱われるという、彼独特の表現を成り立たせているのである。

 永瀬が書き記した「展覧会ノート」へ話を戻そう。それらの一部を具体的に列記してみると、須田一政展『EDEN−終章−』(写真/アートスペースモーター)、川内倫子展『ALIA』(写真/リトルモア・ギャラリー)、野口里佳展『飛ぶ夢を見た』(写真/原美術館)、根本美恵展(絵画/藍画廊)、杉本明広展(絵画/なびす画廊)、村瀬恭子展『To The Mountain Lake』(絵画/タカ・イシイギャラリー)、岡崎乾二郎展(絵画/GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE)、『栄光のオランダ・フランドル絵画展』(東京都美術館)、小林良一展(絵画/hino gallery)、『resonance room』(Gallery ART SPACE)、Tom Friedman展(小山登美夫ギャラリー)、オノ・ヨーコ展『I LOVE U』(ギャラリー360°)、村上隆展『サトエリko2ちゃん』(小山登美夫ギャラリー)、『四批評の交差−いま、現代美術を問う−』(多摩美術大学美術館)、『六本木クロッシング』(森美術館)、ロバート・ライマン展(絵画/川村記念美術館)、織とゆかり展(絵画/Oギャラリー)、野沢二郎展(絵画/コバヤシ画廊)、小林正人展(絵画/shugoarts)、松浦寿夫展(絵画/なびす画廊)etc・・・。
 これらの内には、私自身が目にしたものもいくつか含まれてはいるが、そこで得た印象をもって推測してみたとしても、ここで挙げた作品が永瀬の創作、とりわけその根幹にある「色彩」と「かたち」の在り方に与えたであろう「何か」を伺い知ることは困難である。では今回展示される作品と、永瀬の行った展覧会行脚とは、どのようにつながり得るのか。
 思うに永瀬がさまざまな作品から感じ取った「何か」とは、日々の暮らしの中の無数の事柄と同様の、いわば「異種の日常」といえるもので、彼はこれを、日々のささいな体験と同じように意識の中に取り入れ、そこから記憶や思考として残されるものを取捨選択して、創作の源となるべき他の無数の記憶と混ぜ合わせようとしているのではないかと思わる。さらにそうした記憶は、作品の制作にあたって彼自身も完全には意図し切れないイメージが、「色彩」および「かたち」となって画面に現れ拡散するように、たとえ視覚の上ではそれが確認できなくとも、作品が表すイメージを支え創作の核となる部分を拡大させ得る存在ともなるだろう。そしてそこでは、永瀬自身が日常に向ける視線が表され、そこから私たちも、彼の意識の領域を源とする「色彩」と「かたち」が生む「世界」に、わずかばかりでも触れることができるのである。
篠原 作品を制作する場合、最初に何かの動機を出発点にして、最後には到達点としての作品の完成形というおぼろげな姿があって、その間のさまざまな過程がスタイルになると思うんですけれども、永瀬さんが今回制作している作品は、どういった過程を踏んでいるんでしょうか。
永瀬 過去の巨匠や同時代の人たちとかのいい絵を見て、「やっぱり絵はいいなあ、こういう絵を描きたいなあ、絵を描くっていうのは楽しいんだなあ」ということが画面を通して伝わるのは、いいことなんだなあというのがあって、それを自分もやってみたいっていうことが一番最初の動機なんです。それで、自分が実際に(制作を)やろうとした時に、好き勝手にやってそれが人に「いい絵だなあ」と思われるかというと、決してそうではい。いい絵というのは、何かが一つ間に挟まってなくてはならなくて、それが何なのかということと、自分がそれをどう通過してゆくのかということを探すのが、今の自分の制作のかたちだと思うんです。だから、一番最初の見ることの喜びや描くことの喜びから、それを自分が作品としてどう定着させてゆくかという時のくぐり扱け方を探っているという状態なんですね。以前「マチス展」を観に行ったときに思ったことなんですけれども、巨匠と言われる人たちでも、こうしたことをずっと探してる様な気がするんです。これを考えてゆくのが描くことであって、何かの方程式に沿って制作してゆけばいいものが量産されてゆくことはおそらくないんだろうなと。
篠原 巨匠の場合はそれが伝説になりますけれどもね。
永瀬 考えてゆくことと描いてゆくこと、いい絵を描くプロセスというのは、固定的なものではなくて、ずっと探してゆくものなのかなという気もするし。
篠原 今ここにある永瀬さんの絵を例にとると、かたちや色は当然最後に自分なりのものが出るわけだけれども、その自分なりのものに変わる地点に関して、具体的な手応えがあるんでしょうか。それは確かに通過点ではあるんだけれども、作品ができるためには必ずそういった場面がどこかで出てくるわけですよね。
永瀬 この色やストロークを使おうとか、このかたちにしようとかといった、判断やチョイスのことですよね。その判断の基準は、やっぱり過去に見てきたものの記憶だと思うんです。あの絵は良かったなあといった外からの要素ですよね。もう一つは絵とは関係なくて、自分が今まで生きてきた中で備蓄されてたまっているものです。今回の作品については人体のストロークが入っているんですけれども、風景と人体とのどちらを取り入れようかと思った時に、結局人体にふっと流れていったというのは、自分が人体に多少こだわりがあるんだろうなあという気がするので、今まで見てきた絵の記憶の備蓄と、自分が経験してきたことが重なって選ばれてくるんだろうなあと。
篠原 最終的にこういったかたちになるということは、制作の途中である程度イメージされますよね。そのイメージは、自分の中から出てきたものなんでしょうか。
永瀬 それはないと思うんです。面面と対話していて、一筆入れたことが画面に対して良かったの悪かったのという判断をする時に、もっと良くしてゆこうとするには、自分の中にあるかたちを投影してゆくというよりは、画面が訴えてくるものを読み破って・・・。
篠原 両面にはどんどんイメージが積み重なってゆくから、そこからフイードバックされたことが自分に影響を与えるということなんでしょうか。そうなると、造形的な作業がイメージをつくり出してゆくということになる思うんですが。
永瀬 ゴールが決まっていないというのは確かにあるんです。
篠原 そのゴールが決まっているかどうかという点が、永瀬さんの作品の中で非常に気になる部分なんです。
永瀬 「こういう図柄で仕上げてやろう」という意識はなくて、どこで完成するかも、実際に両面を見ながら判断してゆくんで、「自分のカではもうこれ以上、この画面は活性化しない、良くはならないだろうなあ」というある種の諦めが出てきた時が、その絵のとりあえずの完成になるということ。あと、展示が終わってからさらに手を加えることがあるんです。自分のこの部屋の空間の中でだけで描いていると、「ああ、ここまでだ」と思ったんだけれども、ギャラリーに置くなり違った空間に置いて、違う灯の中で、しかも人目にさらされる中で見た時に、「あそこはこうなんじやないかな」と思うことがよくあるんです。一度完成した絵でも、他の絵を描いている時に「まだこうなる」って描き加えて、つまり完成の瞬間が二度来ることがあって。
篠原 作品一点一点を別個に完成させてゆくという感覚ではなくて、一つの展覧会全体がある到達点であるということでしょうか。
永瀬 展示自体については、展覧会全体でインスタレーション的にきれいな空間をつくりたいという意識はないんです.何点か描いてゆく過程で右往左往してゆくという.だから、作品の完成の順番を付けるのはとても大変で。
篠原 今はイエロー系の色彩の絵がずっと続いていますけれども、この色の原点は何ですか。
永瀬 描く時に意識をしてそれを選んだんではないんです。僕は、野沢さんという人に触発されて版画からペインティングに移行したという経緯があって、その人の黄色あるいはオレンジ系の茶色の影響が多少あるのかなあと、描いた後になって思い当たったことがあります。
篠原 黄色に関しては、他に内面的な部分で思い当たることはないんですか。さっき、画面とやりとりをすることで制作が進んでゆくという話をしていたけれども、この黄色がもっともやりとりしやすいということなんでしょうか。
永瀬 黄色に限らず、色の数をまず限定するということが3年くらい続いていて.さっき自由になんでもやるとかえって良くないという意識があると言ったけれども、それは多分、銅版画という制約の多いメディアをしばらくやっていたせいもあって、ある程度限定してゆきたいというのがあるんです。その時に、暗くて重さを感じさせる色は避けたいというのがあって、なるべく軽く、明るくありたい.深さや重さを持った、重厚で精神性のある作品はつくりたくないんです。明るくて軽い色で、マチエールも厚くせずに・・・。
篠原 モノ的ではない方が、イメージが広がりやすいからでしょうか。
永瀬 明るさというよりは軽さを選んで他を削ぎ落としていった結果じやないかと・・・。
篠原 ところでキャンバスを裏貼りして色をしみ込ませるような方法で制作をしていますけれども、そのきっかけは何でしょうか。
永瀬 版画からペインティングに移行するときに、まず最初は普通にキャンバスの表側に描いてみて、はじかれるような絵の具の乗り方が気に入らなかったんです。受験の予備校時代にお金がなくて、一枚のキャンバスの表裏に描いたことをそこで思い出して、裏に描いてみようと思ったことが一番最初のきっかけなんですけれども、ただ、生地へのしみを具体的に使って何かを表そうというのではないんです。下地はジェッソである程度がっちりとつくりますし。それで、この下地をつくるという作業が、自分の中では大事なのなかなと今になって思っているんです。
篠原 今回の展覧会で、新しく試みようとしていることは何かありますか。
永瀬 技術的には、ストロークの導入です。今までは指で押さえてゆくような、塗ってゆくことでマチエールや画面ができてゆくということがあったんです。それを2、3年続けてきて、少し行き詰まってきた感があって、これをどうしようかなあと思ったときに、ある時にふっとストロークを使って線を引いてみたら気持ち楽になってね。何でそういった簡単なことが今までできなかったかというと、線を引くというストロークの根拠がなかったんですね。適当な線を引くには抵抗があって手が動かなかったんです。それで、ストロークを使って何かをしたいと思った時に、人体の曲線を使えばいいんだと思ったんです。
篠原 イメージの上での試みはありますか。今回の企画にあたって、ずいんぶいろいろと展覧会を見て廻られていますけれども、そうしたものから受けた影響は、作品のイメージの中に何か現れているんでしょうか。
永瀬 「自由」ということかな。何で展覧会をたくさん観るようになったかというと、自分が自由じやないから意識的にそうしようと思ったわけです。観れば観るほど皆が自由に描いていているようで、ただ、「自由」というのは何なんだろうなと思った時に、ある構築性の中で高いレベルで遊ぶというか、絵画と対話するというということをそれぞれの作家さんがやっているなあと。でも自分はやり切れていないという思いがあって・・・。
篠原 やり切れていませんか。
永瀬 この3年間は、限定的な要素で自分を縛ってやってきたんですけれども、それが窮屈になってきたゆえのことだと思うんです。それと連動して、自分への制限を解いてゆきたいなあと思ったんです。ただ、そう思った時にそれが出来なくて。解きたいなあと思って人の作品を観た時、良い作品をつくっている人はそういったところを見定めているなあと、自分の制作の現場に帰ってきたときに、どうやれば今まで自分がつくってきた枠組みを外せるかを考えた時にヒントになったのが、人体のストロークだったんです。                               
 一つの画面に比較的近い色調で展開するイメージと、作品によってはストロークがつくる線が前面に出て表された、6点の絵画作品をもって構成された展覧会。
 この内、線のストロークによるものについては、面積の広い肌色のタッチをベースに、オレンジ色のタッチと薄いエメラルドグリーンによる幅広のストロークがところどころで絡み合うF100号横長の作品および、永瀬が以前行った展覧会でも使用したような鮮明なイエローに近い色彩が明度を数段階変えながら重なって、その中に触れ幅の大きなタッチが見て取れる143×97cm横長および130×130cmの作品(この2点は高低を変えて並置された)が挙げられる。
 また、画面上で線が踊るようなはっきりとしたストロークが現れたものとしては、幅広のピンク色のタッチをベースに、肌色やオレンジ色のタッチが重なった上に、グレーのクレヨンで描いたような線がところどころで絡み合うF100号横長の作品および、同じくピンク色のタッチをベースにしながら、グレーとグリーンを混ぜたような色彩のタッチがその下に厚く広がることでイメージを氾濫させ、パープルのタッチとストロークが別の層をつくって二次元的な空間の広がりを表すF100号横長の作品、一転して濃い青(群青)をベースに、幅広の水色のストロークや、緑色および朱色のクレヨンのような細い線画が画面上にもう一つのイメージをつくるF80号横長の作品が出展された。
 ところで永瀬は、これらの作品に現われるストロークについて「人体」のフォルムがおおもとにあると発言しているが、同系統の色とはいえ、イエローでまとめた作品を除けば様々なタッチが氾濫するように重ねられ、その空間の狭間から見え隠れするかのように表されたストロークは、彼の意識の内に存在する「人体」に対するイメージそのものを露にするだけではなく、そういった「人体」のイメージの原型を、現実の中では必ずやその周囲に生まれるであろう実空間もろとも象徴し、さらには永瀬自身と世界とをつなぐための入口を暗喩しているような気がしてならないのである。
 再び画面に戻ろう。今回展示された作品では、遠目では淡く平坦な外見だが、作品に近寄ってみると、思いのほか多様な絵具の層が物質的に重なり合ってイメージを創出していることがわかる。思い起こせば永瀬の作品は、裏張りしたキャンバスにジェッソで地塗りをした上から、指で絵具を直に押さえるようにしてイメージが描かれることで、地塗の下から露出するように浮き出た布の質感が絵具の色彩と濃度差をつくって画面が完成するというものだった。しかし今回の作品では、そういった「布の質感」と「色彩」を表すタッチとが絡み合うことで、両者が重なり合う部分では複雑な形の二次元的空間が生まれ、こうして物質的に多層をなす絵具の在り方と、視覚の上では比較的平坦な画面全体のイメージとの印象のズレが、永瀬の絵画空間の別の一面を物語っていると思われるのだ。
Vol:8  阿部尊美 『風景34427』(2005年1月に開催済) 目次に戻る
 2005年12月15日、阿部尊美へのインタビューのために私は東京タワーへと向かった。思えば東京タワーを遠くにのぞむことはしばしばあっても、間近に見上げるのはいったいいつ以来だろう。確か10年近く前に京都の知人を案内はしたが営業時間外で中に入ることができず、それ以前となると今から30年近く前、小学校の修学旅行で展望台に昇ったおぼろげな記憶が残るのみである。だから今回の展覧会に際して、東京タワーをモチーフにした写真を使用したいというプランの提案を受けたとき、具体的なイメージをにわかには思い浮かべることができなかったのだ。
 阿部個人が東京タワーに対して持つイメージに関してはこの日のインタビューに譲るとして、東京タワーをモチーフとすることについて彼女は、幼い頃の自分自身の記憶に残る「東京タワー」のイメージと現在のそれとのギャップの大きさを、モノの見え方を巡って必然的に現れる個人の意識の「揺らぎ」としてとらえ、その「揺らぎ」を、そうした意識の在り方の要因になることもあろう私たちを取り巻く日常や世情、さらには、世界そのものを覆う不安感のおおもとを探るための糧にしたいということを、展示プランの発案に際して語っている。
 大いなる繁栄の傍ら時にはその代償として、私たちの身辺が様々な不安に包まれていることは、今や誰の目にも明らかであろう。古くは公害や交通戦争に始まり、金融不安、種々の勢力によるテロ、医療ミスの露呈、犯罪の無差別化・低年齢化、エイズ等の未知の疫病の浸透、中近東地域の紛争の激化、遺伝子組み換えをはじめとする食料に対する不安、地震などの自然災害、異常気象など数え上げればきりがないが、そうした不安材料にもやのように遮られて先をはっきりと見通すことのできない私たちの近い未来の在り様を、自身の記憶に根ざす「曖昧さ」をもって象徴する試みが、この展覧会を通じて行われようとしているのである。
 展示は、阿部がデジタル・カメラでカラー撮影した、東京タワーを真下から見上げて強烈なパースペクティブが付く写真をベースに、東京や横須賀などの街角で撮った情景1〜2点を東京タワーの写真と組み合わせ、そうやってできた数組をギャラリーの壁面に点在させて空間を構成することが予定されている。
 ここでは、東京タワーは阿部自身の記憶の象徴として表されるが、どことなく古めかしく写る東京の街角は、やはり彼女の記憶の一部であると共に、私たちが生きてきた時代そのものを象徴し、片や横須賀などアメリカと深い関わりを持ちつつ繁栄し衰退した街の景観は、政治と文化の両面で良しにつけ悪しきにつけアメリカに強く影響され続けてきた戦後日本の姿をネガティブに象徴しており、これら要素の異なる3つの光景が並列して醸し出されるイメージは、作品と相対する私たち一人一人の記憶の中の景色を一時蘇らせ、さらに今現在の不透明な世情が、アメリカとの関わりの中での中で豊かさの代価として必然的に培われてきたことを暗に示しているように思われる。
 ところでこうした、阿部個人の記憶あるいは意識の中の何かをもとにした作品が、私たちの意識にポジティブな働きかけを行い、そこから結果的に「世界」の在り方が探られてその姿が浮かび上がるという手法は、阿部がこれまでに発表してきた作品に一貫する大きな特徴の一つである。わたしが彼女の作品と初めて直に相対したのは、音楽家とのコラボレーションの際に設置された作品で、サウンドセンサーを組み込んだオブジェが中に吊るされた立体を空間に数個配し、楽器や落下物の音など、音楽家の出す音に反応してオブジェが動くというものだった。その後も阿部は、空間全体に設置した様々な色のネオン管が、やはりセンサーで人に反応して発光し消灯する作品を発表しているが、その他にもたとえば、「一寸の虫にも五分の魂」という諺をベースに、来場者に対して「一寸の虫」の長さを想像して記してもらい、さらに用意された様々な大きさ・かたちの小石の中から「五分の魂」の重さをに当てはまるものを選び出してもらうといった、あることばへの観客の感じ方そのものをかたちとするような展示も併せて行っている。
 センサーによるものにしてもことばにまつわるものにしても、これらはいずれも阿部自身のイメージをもとにしたある仕掛けによって観客の意識への働きかけを行い、そこから人の意識の本質を探る意味を担っていると考えられるが、これまでの作品では、観客への働きかけやそこから解き起こされるものの部分に比重がより大きく置かれているのに対して、彼女自身の東京タワーの記憶を起点に展開する今回の展覧会では、阿倍の意識の領域に根ざすものと、それを見て取る私たち、さらに両者を包み込んで在る「世界」との関わりが表現の核になっているといえるだろう。そして、そういった3者の出会いの場で生まれるであろう新たな価値観を、私はこの企画を通して見つめてゆきたいと思うのだ。
           (Gallery ART SPACE・篠原誠司)
篠原 今回の展覧会では、東京タワーの写真がメインで使われていますが、その最初のイメージはどのようなものだったんでしょう。
阿部 最初に私が東京タワーに対して持っていたイメージは、小さい頃からのもので、少し野暮ったいくらいの真赤な「塔」だったんです。私が子供の頃には、東京タワーは日本のシンボルのようなものだったんですけれども、父が働いていた会社が、東京タワーのてっぺんに付いているアンテナをつくったんだということを聞いていて、その頃の、父がヘルメットを被って東京タワーに上っているモノクロの写真を見ていたことが強く印象に残っているんですね。その頃の日本では欧米に対する劣等感が強く、でもそういった中で東京タワーというのは、当時の技術者や職人の人たちが「世界一の塔をつくろう」という意気込みがあってできたものだと思うんです。家では父がものすごく忙しくて、顔を合わせることもほとんどなく、家族でどこかに出かけるということが無かったんです。ただ一度だけ、私が小学校に上がる前の本当に小さな頃に、東京タワーに父が連れていってくれたことがあって、東京タワーの真下で、父が雪印の大きな箱のアイスクリームを買ってきてくれて、それをタワーの真下に立って食べたことや、その時に母が、足が痛くてタワーには上れなかったことを、その場面だけ記憶しているんです。そういう諸々のイメージが、東京タワーの真赤などす黒い姿と、当時の日本の誇りのようなものが重なり合って自分の中にあったんです。
篠原 阿部さんがもともと東京タワーに対して持っていたイメージと、作品にしようと思った時点の東京タワーのイメージとは大きなギャップがあって、そのギャップ自体が今回の制作のもとになっているわけですけれども、その、作品にしようと思い立った時の東京タワーのイメージはどのようなものなんですか。
阿部 東京タワーはずっと、自分の中では見て見ぬふりをするというか、まともに見るのが恥ずかしくて、あえて意識しないようにしてきたんですけれども、数年前にたまたま通りかかって眺めたときに、久しぶりに見た東京タワーは、昔のようにどす黒く野暮ったいような赤に全体が塗られていたのではなくて、真中の(展望台の)部分が白っぽくて、ちょっとヨーロッパ的な洗練されたような色で、その時に初めて東京タワーが、電波を伝える役割を持った普通の「鉄塔」に見えたんです。そして、これが本当に東京タワーなのかなという驚きがあったんです。
篠原 そのギャップというと・・・。
阿部 その時に見た色やイメージが、別の意味で今の日本を象徴しているように思えた部分があって。それは、昔は職人の人たちが自分で試行錯誤しながら欧米に追いつき追い越せという風にやってきたのに、いつのまにかそれが、表面的な形の綺麗さや性能などの効率的な部分だけを追求しながら欧米に近づきたいというような意識へと変わり、そのことを象徴しているように見えたんです。昔は街も汚くて、ゴミが落ちていて、欧米と比べるとそれがすごく恥ずかしいことだったんです。でも、それが今や、東京もゴミが無くなって綺麗になったんですけれども、何かつるっとしていて、街が綺麗になった反面、人の意識の中にある矛盾のようなどろどろとした部分が、そういった綺麗なつるっとした表面の内側に淀んで溜まっていったんじゃないかという気がしたんです。
篠原 今の時点で、東京タワーは阿部さんの中で作品としてのイメージがほぼ出来上がっているわけですけれども、まさに今東京タワーを目の前で見上げていて、作品をつくっていたときとはまた違った、何か新たなイメージは感じますか。
阿部 東京タワーには、いろいろな年代を見てきた一本の「塔」を象徴しているようなイメージがあるんですけれども、作品のモデルとして小さく伸ばした写真を、東京タワー以外の風景を撮った写真と並べて見ている内に、私の中の東京タワーのイメージが、同じ像でも見るときの意識によって異なって見える、揺らいでいるように違ったものに見えるという気がしたんです。
篠原 今回の写真は、展覧会のDMにもあるようにほぼ正面から上を見上げて撮っていますけれども、そうした理由は何でしょうか。
阿部 東京タワーの周りでいろいろな角度から撮ってみたんですけれども、その中で真っ正面から撮ったものを選んだのは、普通の風景としての東京タワーというよりも、象徴としての東京タワーとして一番しっくりきたからです。
篠原 東京タワーのことは一たん離れて、今の世情についてのネガティブな面を作品を通して引き出すというテーマを今回は暗に掲げていますけれども、そういった部分で阿部さんが今一番気になっている、または象徴的であると考えていることは何ですか。
阿部 それはやはり、アメリカに関することです。特に今のアメリカの危ない状態に対して、私たちは大きく影響を受けているわけですよね。それに対してどういう態度を取ればよいのかということが世界的にあり、その一方で、日本についても、今やいろいろな時代の境目にあるような、ちょっと危ない状況にあるということを強く感じています。小さい頃のアメリカは、あそこを目指してゆけばいいというような当時の多くの日本人からすれば、夢のある場所で、それがいつの間にかいろいろな点が見えてきて、今やアメリカがちょっとおかしいんじゃないかという状況になってきている。それに対して自分たちがどういうスタンスと取ってゆけばいいのかというということや、意識の面でも、そこを目指して形だけを追ってきたという面に対して、どこか間違ってしまったんじゃないか、どこかに大事なものを忘れてきてしまったんじゃないか、そこを見極めてゆかないとまずいんじゃないかということがあると思います。
篠原 ではそれとは逆に、今の状況で、未来に対して開かれた、ポジティブにとらえられるような部分は何か具体的に感じていますか。
阿部 今までに捨ててきたものの中に、価値をもう一度見直すということでしょうか。みんな薄々気付き始めているように、アジアの良さやちょっと古いものへの回帰のような部分を若い人たちが求めているようなことがあると思うんですけれども、八百万神とか、アニミズム的なものの考え方とか、迷信とか風習とか、古くて、優柔不断だと言われて捨ててきたものの中からも、自分たちが本当に大事だと思えることをもう一度拾い挙げてゆくということが必要なんじゃないでしょうか。
篠原 阿部さんの今までの作品では、自身のイメージがおおもとにありながらも、例えばセンサーを使ったものにしても、ことばを使ったものにしても、外に向かって投げ掛けてそこから生まれたものが前面に来るというように、観客をはじめとした外部に委ねる部分が大きかったように思うんです。それと比べて今回の作品では、東京タワーという子供の時の記憶が核になっているだけに、阿部さん自身のイメージが前面に出ているわけですけれども、やはり今までの作品との違いは感じているんですか。
阿部 共通している部分はあると思うんです。それは、人の意識というのはちっとしたことで見方が変わってしまう、価値観がころっと変わってしまうというのはいったい何なのかということが作品をつくる発端になっているということで、その根底には、「戦争」というものを起こしたものは何なのかという小さい頃からの疑問があったように思うんです。戦争をしているときは「鬼畜米兵」と言っていたのに、戦争が終わった途端「アメリカ万歳」になってしまったことに不信感を感じた人も多かったと思うんですね。戦争の前後では、当然のことながら人を殺せば殺人者として罰せられるのに、戦争では、国によっていろいろな理由がつけられ殺人が正当化され強制される。反対すれば逆に罰せられる。また、多くの人は、その価値観の転換を受け入れてしまう。戦争に限らず日常においても、そのころっと変わってしまう価値観に対する不信感、大勢の人がいつの間にか操作されてしまうことに対する思いがまずあったんです。そうしたものの見方の揺れを出来るだけ透明な状態で表そうとして、あえて真っ白なギャラリーの空間で展示をしていたんですけれども、それは、自分が物事を考えるときに、自分をいったんなくすことで本来のかたちが見えるんじゃないかと思っていたからなんですが、今回それとやり方が変わったというのは、あまりにもおかしな今の世情を見ているうちに、実験室のような何もない空間を使うことが本当に良いのかなと思えてきたということがあると思います。そういったことを直接的に問題にしてゆくことの方が今の時代には必要なんじゃないかなと感じたんです。
篠原 作品に視覚的なイメージの強さを求めたこともあるんでしょうか。
阿部 今までは音とか、もっと体感的なものを使っていたんですけれども、今は目で見えることの揺らぎをテーマにしようと思っています。
Vol:9 山本あまよかしむ 『men』(2005年3月に開催済) 目次に戻る
 ある曇りがちの日の午後、自作の「仮面」で顔を覆って彼女は現われた。その時ギャラリーには私を含めて5〜6名ほどいたが、入口のドアのガラス窓から白っぽい塊が覗き見えることで、そして次にはドアを開けて入ってきた全身を見て取ることで、その場の誰もが一瞬間小さく息をのみ、しかしそこをピークにして、誰かが「仮面」を被って入ってきたのだとわかった後には彼女の姿は場に馴染み始め、私たちを包んだ緊張感は徐々に薄らいでいったのである。
 山本あまよかしむ。不思議な語感の作家名を持つ彼女の作品は、布を素材に人の「顔」をかたどり、時にはそれを実際に被ることもできる。布の表面に、目、鼻、口などの顔の造作が浮き出るようにところどころに開いているという外観はいうまでもなく、そうした造作が布の支持体を指でこねながらつくり出され、さらに一度つくられた「顔」も再度手が加わることで別の「顔」に変化するというその在り方は実にユニークで、それは単に造形として独特であるだけでなく、こうして生まれた「顔」自体が架空の人格を持って空間に漂い私たちと相対するような、不思議な印象をまとっているのである。そして、さきほど紹介したような、布の仮面をまとった彼女がギャラリーに入ってきた瞬間の緊張感が徐々に空間に馴染んで薄らいでいったのも、この独特な作品の在り方のためだ。
 つまり、私たちは最初の一瞬「人ではないかもしれないもの」の出現に戸惑いつつも、「ギャラリーでは思いもよらない表現が突如展開される」という観念も後ろ楯となって、「面」で表される人格が「観客」の一人としてその場に居合わせた人々に認識されたからではないだろうか。そして、この新たな「人格」が手作業で容易につくられ、さらにそれが再び指でこねる作業によって抹消され別の顔に置き換えられてしまうという不確かさは、自己の存在を身体や意識で確かめながらも、永遠の時空間にあっては真の姿を決して知り得ない私たちの在り方そのものを暗に表しているようにも思われるのだ。
 ところで、果てなく「変化」することは山本の表現の根幹だが、そのために彼女が考えたものが、「塑像感覚でこねこねしながら形を作ってゆけて、好きなときにいつでも形を変えられる、粘土のような布」と彼女が語る独特の素材と手法だった。この「粘土のような布」は、木綿、ポリエステル、レーヨン、ニットなどの繊維素材を糸にしたものと細い銅線とを共に織り込んでゆくことでつくられるが、この布素材を実際に手に取ってみると、思いのほか柔らかくしっとりとした触感を持っており、あたかも架空の生き物の皮膚あるいは毛並みに触れているような印象を感じさせることさえもある。
 今回の展覧会「men」では、こうした触感をまとう多数の「顔」をもって展示が構成されるが、この内には彼女自身や観客である私たちの手によって顔の造作を次々と変えてゆくような作品や、私たちが手に取り実際に被ってみることができる作品も含まれており、これについて山本は、「肉体を使って面の中に飛び込んでみること。面の内側で起こる変化、外側で起こる変化を体験してみてほしい」ということばで説明している。
 展覧会の際には私も、山本の手によるさまざまな顔を実際に被り、自らの手で新たな顔をつくり出したいと考えている。そして、自身の身体を覆うもう一つの「人格」を体感する、あるいは自身の手による「人格」と対面するにつけ、その「変化」自体を楽しみ、さらに、確かに「今、ここに」在りながらも永遠の中では霧のように朧げな「私」という存在に、しばし思いを馳せてみたいのだ。
篠原 以前、山本さんがギャラリーに「仮面」を被って入ってきたことがありますよね。その格好で街を歩いたことはあるんですか。
山本 経堂で展覧会をやったときには、ほとんど被って歩いていました。でもこの「面」は視界が悪くて、くねくねした道では危ないんで、頭のうしろに被っていました。でもその方が、皆さんの反応が面白かったんんです。前に被っていると最初から構えてしまうじゃないですか。うしろだと通り過ぎたときに「わっ」となるし。
篠原 被っている自分は、被っていないときと比べてまず皮膚の感覚が違うじゃないですか。それ以外にどんなことが異なって感じられますか。
山本 これは自分のためにやっているんではなくて、人との関わりの中でやっているんであって。まずは「受けたい」ということもあるし。外から見るときの自分と、中にいる自分の二つがあると思うんだけれども、どっちも元の自分とは違ったものになるという面白さがある。「今回はどうなるのかな」というような、予測のつかない部分が見えてくることが面白くて、こうしたことをやっているんです。そういった自分の感覚の変化を知りたいということもありますけれども、それよりも自分の外の世界が変わってゆくことが面白いんです。自分のことはあまり見えないんでね。人のことを観察しているから。でも、積極的に人と関わろうとしていること自体が、日常とは違う精神状態だと思うんです。普段街では、なるべく目立たないようにしているじゃないですか。なるべく常識的な人間として振舞おうとか、みんな意識的にも無意識的にも考えていると思うんですけれども、そこの部分をわざとひっくり返しているという意味で、日常ではないですよね。でも、何かを被ること自体が、日常ではないことだと思いますけれども。
篠原 自分を別のキャラクターに置き換えるという前提があるわけですからね。
山本 「面」の作品をつくり出してから、その他の「面」も注意して見るようになったんですけれども、自分は何がしたいんだろうということを、そういったところから考えてみると、古来からある「面」と共通する部分はありますよね。
篠原 その日の気分で少しずつやり方が違って顔が出来てくるということだけれども、日によって結構顔の造作は大きく変わるんですか。
山本 笑っているとか怒っているとか、素材の上では大きな変わり方はできますけれども、実際につくっていて思ったのは、そういう激しい表情はつくるのが簡単なんですよ。怒ってるとか、わかり易いじゃないですか。それだとあまり面白くなくて、能面のように笑っているのか泣いているのかよくわからない表情の方が、こちらのイマジネーションで判断をすることが出来る。そういった、なんて言ったらわからない表情の方が、外側で見る人が、自分で自由に想像できるというところがあると思ったんです。私の場合は、能面みたいに木でつくって中間的な表情で固定してしまっているのとは違って、みんなが手を使って表情を変えることが出来るということがやりたかったんです。私がやるということもあるんだけれども、それ以上に、やりたくなるような状態にしておいて、会場に来てくれた人が、その日の気分でほんのちょっと、たとえば口を開けただけで表情が笑ったり、ほんの少し眉間に皺を入れるだけで怒ったようになったり。こどもの頃にやった粘土細工のように、ちょっと触っただけで違ったものになる。絵を描いていてもそうですけれども、人間の顔ってちょっと一本線を入れただけ変わってくる。そういう変化の面白さが、みんなが触感体験を通じて知ってもらえたらいいなということがあるんです。あと、自分ともの造りとの関わりというよりは、ギャラリーでやる場合には人との関わりになってくるわけだから、作品と人との関わりをもっと肉体的というか、触感的なものにしたかったんです。
篠原 お客さんは顔の造作を結構つくり込んだりしますか。
山本 今回は、まだ顔をつくっていない巻物状の作品を置こうと思っているんですけれども、前回の経堂での展示では、つくり方を聞く人が多かったんで、まだ穴が開いただけのサンプルを置いたんです。お客さんがそれをいじっている内に、顔みたいになってきてね。みんないじるんだなあ、もしかしていじってもらったら面白いんじゃないかということがわかったんです。でもある程度はつくってあげていないと難しいとは思うんですけれども。
篠原 「変化する」ということをテ−マにしていますけれども。
山本 確かに表情は変化してくると思いますよ。
篠原 「変化」って、これを「流転」ということばに置き換えてもいいと思うんです。変わっていった末の果てが無いわけですよね。途中で顔でなくなったりもするしね。
山本 「変化」というのは「へんげ」と掛ててみたかったこともあってこういうことばを使ってもいるんですけれども。
篠原 「へんげ」というのは、もとの状態があるんだけれどもその姿が実際には見えてこないという部分があると思うんです。もとの状態をどこに置いているんでしょう。
山本 もとの状態というと。
篠原 一番最終的なかたちということでもいいんですけれども。
山本 最終ってあるのかな。変化という場合、さっき言ったように、日常をもとのかたちとしてとらえているんです。たとえば「面」を被るときに、何かに変わるために被る訳じゃないですか。そういう意味があるけれども、変化する果てがわからないから面白い。多分、その果てを見たり、人に見てもらうことって、その先を知りたいからだと思うんです。自分ではとりあえず結論は付けないで宙ぶらりんにしておいて、日々起こってくることを観察するという。ア・プリオリに物事を考えることが最近はつまらなくて。人間の考える理屈とか、理由付けとかって、一人の人間が考える範囲ではたいしたことは出てこないわけじゃないですか。これだけ何十億人も人がいるんだから、いろいろな人と関り合う中で、答えを教えてもらおうかなと思っているんです。最初に「私はこれをこうしたい」という風に考えると、つまらないんですね。
篠原 展示の中でそれを知ろうとしているんでしょうか。
山本 それを期待しているんでしょうね。そうじゃないと、ギャラリーで個展をすること自体に、丸く収まってしまった奇麗さを感じてしまって。最初に展覧会をした頃は、展示が終わったあとに妙な空しさが残ってね。作品を売るのでなければ、もっと人との関わった、何か見えてくるものが欲しいということが正直なところです。
Vol:10 tomomi 『Eternal Speed』(2005年3月に開催済) 目次に戻る
 展覧会会期まで一カ月余りとなった1月末、Tomomiの写真についてあらためて見直すために、彼女のホームぺーを数ヶ月ぶりに一通りたぐってみた。写真作品の数々を紹介するインデックス・ページを開くと、タイプの異なる7点のカラー写真が並んでおり、それぞれには「Eternal speed」(今回の展覧会のタイトルである)「Ambiguous Feeling」「憂鬱な温度」「此処から其処まで」「FLOWER」「腐敗してく風景」「ただ浮かんでいるだけ」といった、ある感情を象徴するようなタイトルが冠され、各写真をクリックすると、その下の階層に収められた数枚の写真を見ることができる。
 私はまず最初に「此処から其処まで」をクリックしてみたが、そこでは、コンクリートの塀、手首から先のアップ、道路に落ちる柵の影、磨硝子の上に広がる水滴、斜光に映える電線、青空が広がる都市の遠景が次々と現れる。さらに「Ambiguous Feeling」では、コンクリートの階段を真横から画面いっぱいにとらえた光景が、「憂鬱な温度」では、皿に落とした生卵の黄身に寄り添う気泡や、緑の葉を背景にして咲く赤い花の群れが、「腐敗してく風景」では割れたガラスのアップがさながら抽象表現のようにも見えるモノトーンの光景や、トマトの断面をアップでとらえた光景が、「FLOWER」ではシクラメンや紫陽花などさまざまな花を色鮮やかに表したものが、展覧会タイトルを冠して最新作を収めた「Eternal speed」では、外壁の格子模様と三角形の影が印象的な無機的な建物の屋上からの遠景と工事中のビル、四角く切り取られらた空が覗く光景などを見ることができる。
 こうしてみる彼女の作品に選ばれるモチーフは多種多様で、一見その間には一貫性を読み取ることは難しいが、Webぺージを徐々に進みながら様々なモチーフを眺めてゆく内に、Tomomiの写真とは、曲線と直線、クローズ・アップと遠景、原色とモノトーンなど、対極にある要素が交互に画面に現われながら、しかし現実の姿をそのまま描写するのではなく、彼女が光景と向かい合った瞬間に感じ取ったであろう「何か」を、その時々の感情に当てはまる色やかたちによって表したものであるように私には思われたのである。
 そして、彼女の作品に対して私は、互いに引き合う様々な要素の狭間にあって写真に実際には写されなかった「何か」が、実は表現の核にあって作品を生み出す源になっているのではないかと考えている。当然ながら撮られなかった現実は無限で、写真として切り取られた光景は特別な存在として抽出されたものだ。それゆえに、彼女の日常に最も近いところにある「撮られなかった何か」を、異なる2つの要素を見やって狭間で空想するにつけ、Tomomiが現実の中で見たものがいかにして彼女自身の感情を背負い、それが写真となったときに私たちに何をもたらすのかという、作品を通じて彼女と私たちとを結ぶ関わりの筋道を辿ることができるような気がしてならないのである。
篠原 いろいろなものを写真に撮っていますけれども、最初に写真の作品をつくろうと思って撮り始めたものは何ですか。
tomomi 実家の風呂がステンレスで出来ていて、そこに水が張ってあったのを撮ったのが最初です。
篠原 そのステンレスの風呂のどこに魅かれたんだと思いますか。
tomomi 単純に「ああ、奇麗だな」と思って。
篠原 色とか、その場の見え方とか。
tomomi 場というか、ステンレスは光っているので、そこに映る透明のものが重なってすごく奇麗だったんです。
篠原 では、今一番魅かれているものは何ですか。
tomomi 何も変わらずに、同じようなものを撮っています。光っているものと、色鮮やかなもの。
篠原 それがずっと基本になっていますよね。色が一番気になるものなんでしょうか。
tomomi あとはラインですね。ラインもすごく気になっている。
篠原 デジタル・カメラでまとまって写真を撮ってみようと思ったきっかけは何ですか。
tomomi きっかけは、写真の学校を卒業してからしばらくは撮っていなくて、というよりも撮りっぱなしで、ちゃんと何を撮るかという意識もない状態が続いていて。それから土田ヒロミ先生にたまたま会って写真を見てもらった時に、デジカメを買ってみたらって言われて、それで。
篠原 それで始めてみて、銀塩写真と違う部分をどう感じましたか。撮っている時の感覚ということでいいんですけれども。
tomomi 今までは作品をつくる時には、50ミリのレンズや三脚を使って風景をモノクロで撮っていたんです。ちゃんとかっちりと撮っていたんだけれども、デジカメの場合はコンパクト・カメラを使っていて、それでいてモノクロ機能も付いていて、マクロも使えるし、全く撮るものが変わってきたんです。いつもカメラを持ち歩いていて、見近にあるものを面白いと思ったら何でも撮るというように変わったんです。前なら「ちゃんと撮りに行くぞ」ってしていたけれども。
篠原 カメラを持っているだけで何か風景が違って見えるわけですよね。たとえ写真を何も撮らなくても。
tomomoi デジカメでも色がものすごく奇麗に出るから。
篠原 その「色」と関係してくるけれども、出来上がったプリントを見てデジタルと銀塩の違いはどんな部分だと思いますか。
tomomi プリントで言ったら、銀塩で撮った方が絶対に上質だし、美しさや深みがあると思うんですけれども。デジカメは、特に私の場合は家のインク・ジェットでプリンとするのでのっぺりとした感じだし、じっと見るにはどうかなというのはあるけれども、でもデジカメでいいかなっと思っているんです。
篠原 実際にホームページに写真を公開するときには、デジカメの良さは出ますよね。特に写真を「めくってゆく」という感覚がね。
tomomi そう。デジカメで撮った作品の見せ方としては、ホームページがいいと思っているから。やっぱり画面で見て奇麗に見えるというのがね。
篠原 画像がたとえ荒くて汚くても美しく見えますよね。
tomomi たいして画質が良くなくても、画面を通すとそこそこ見えちゃうっていう便利さがありますよね。
篠原 サイズも自由に変えられるしね。あと、撮っているものについてですが、クローズ・アップと遠景とか、直線と曲線とか、色もすごく鮮やかなものとシャープでモノトーンに近いものとかが常に混在しているけれども、撮っているときの意識の違いはありますか。
tomomi 意識の違いはないです。
篠原 やはり、色とかたちへの興味がもとになっているんでしょうか。
tomomi  基本的にはそうですけれども、反射的に撮っているということはあります。
篠原 tomomiさんの写真では、その場では実際に見ているけれども写真には撮らなかった分がとても気になっているんですけれども、カメラを持っているだけで撮らなかった部分って、どんな場面だと思いますか。
tomomi 写真を撮っている時は、ほとんど本能的に撮っているけれども、ピック・アップする段階で何かが出てくるんだと思います。ピック・アップする時は、どうやって画面をつくろうかという風に考えるから、その時には視覚的に面白いだけじゃない別の要素が後からついてくるんです。
篠原 それ以外に、普段見て気になることと、写真になるときに気になることとの違いは何だと思いますか。
tomomi 普段見て気になるものは、色とか形状とかだけじゃなくて、空間的に何となく気になって撮る場合もあるんです。つまり「この空間が何となく気持ちいいな」という単純なところと、でも視覚的だけじゃない要素が混ざっている場合もあるんで、そういういろろな要素を全部織り交ぜて・・・。
篠原 それは、結局は空間の中から何かを写真として切り取るということですよね。空間全部は写せないわけだから。
tomomi そう、空間から切り取って、それをもとにいろいろなものを混ぜ合わせて、もう一回再構成して、写真に写っていない何かみたいなものを出したいという気持ちはあるんです。
篠原 そういう気持ちは、tomomiさんの写真から確かに強く感じているんです。それが一番面白い部分だと思う。
tomomi 多分その感覚って、私の中では音楽とか聞いた時に「ああいいなあ」って思うような感じなんです。だから、たとえばいろいろな写真をホームページの中で一枚一枚めくってゆく時に、その連続の中で、音楽を聞いた時のような感覚を醸し出したいんです。
Vol:11 山本耕一 『CODEX』(2005年4月) 目次に戻る
「人の皮膚というものも、一種の同化作用と異化作用を行い、自己と他者の境をそこに「創出」している、一種の臓器……と考えることができます。」
 これは、展覧会の開催に向けて私が山本耕一と交わしたやりとりの中で、「皮膚」をめぐる自己と他者との関わりについて彼が記した一部分である。このやりとりの最初に私は、山本の表現を評して、あるルールに基づいて自己の意識に根ざす概念やことばをモノに変容し、一方彼が現実の中で出会った事象はテキストへと姿を変えることで、山本自身と他者さらには「世界」との相互関係が築かれるのではないかということを書き送り、それに対する答えに含まれていたのが冒頭の一文だった。「皮膚」を通じて行われる「世界」との関わりを語るこの文は、私が記した造形を通じての「世界」との交信というくだりを受けて、身体的な感覚をもとに一般論を語ったものであるように思われるが、これを読むにつけて私は、以前「皮膜」をテーマとした二人展をGallery ART SPACEにて企画した際のことを思い起こした。
 『語らう皮膜』と題して2004年5月に開催されたこの展覧会は、高久千奈が臓器の皮膜をイメージして制作した紙を素材とするスクリーン状の立体作品に、古厩久子による生まれたばかりの自身の子供のおぼろげな意識を表したような映像作品をヴィデオ・プロジェクターで投影することで空間を創出するという展示だった。そして、この展覧会を通じて私は、現実の中に在ってモノ同士など異なる存在の境界となる「皮膜」の質感と、自身の意識の内に在って私たちの自我とそれを包む外界(=「世界」)との仲立ちとなるような、想像によってのみ感知し得る「不可視の皮膜」がまとう仮構の質感という、性質を違えるこの二つをもって、境界としての「皮膜」をめぐる人と「世界」との関わりを、作家である二人と会場を訪れる観客に対して問いかけてみたかったのである。
 この展覧会で映像のための支持体の役割を果たした高久の作品における、人の身体に含まれる「皮膜」のイメージは、山本が語る「皮膚」のイメージとの重なりを見せるが、それに加えて古厩の作品が表す「不可視の皮膜」についても、山本の作品で行われる自身の意識を仲立ちとした概念と事象の交流との共通性を見て取ることができる。つまり、山本が前出の文章の中で語る「人間の肉体というものは、一つの闇ですね。人は、自分の中に一つの闇、謎を持って生まれ、そして一生をその闇、謎とともに過ごし……人が死ぬと、その謎は、世界というさらに大きな闇の中に消えていく……。肉体のみならず、心というもの、精神というものもそうなのかもしれません。」ということばは、きわめて特殊な状況でなければ目の当たりにすることの出来ない自身の体内に加えて、自己の存在を身体や意識で確かめながらも、永遠の時空間にあっては真の姿を決して知り得ない私たちの在り方そのものを暗に指し示しており、それらを包み隠してなおかつ外界(=「世界」)と結び付ける「皮膜」としての働きこそ、山本の作品が内に含む本質ではないかと思われてならないのだ。

 こうした山本の作品と私が初めて正面から向かい合ったのは、2004年7月に彼の本拠地である名古屋のガレリア・フィナルテでの個展だった。ここでは、彼が20年間にも及んで集めたさまざまな印刷物(54種)から引用したテキストをもとに、A5版・22目・5ミリ幅の方眼紙に文字を出力して表したもの54点を壁面に、彼自身がやはり過去20年間に創作したテキストをもとに同様に出力したものもの54点を床にというように、「6」の倍数をもって壁と床に計108点をグリッド状に配して展示が行われたが(「6」の倍数つまり6進法と「正方形」は山本にとって常に特別な意味を持っており、たと11おえば作品サイズには30cm、60cm、90cmというように、作品の配置については6列、12列、18列というように現れる)、ある基準をもってテキストを選び出す行為においては、山本自身の意識の内にある記憶や概念など(彼自身はこれらに「襞」ということばを当てはめている)が外にあふれ出し、一方、選ばれたテキストが語りかける「何か」によって外からやってきたイメージなどが意識に浸透し、前に述べたように、山本と「世界」とのある関わりを展示空間の中で感じ取ることができたのである。そして彼の作品との次の出会いは、今回の展覧会に出品される予定の『否視 INVISI(アンヴィジ)』のシリーズの内の二点および十数点分の作品ファイルがギャラリーに送られて来たことで訪れた。それは以下のようなものだった。
 スチールのフレームで額装された、画面サイズ26×36cm縦長の白い紙の天地を貫くように、後ろ向きの女性の裸体の下半身が薄目に鉛筆できわめて細やかに描写されており、一点には、画面下方に「INVISI」という文字が、発音を示す記号およびその意味を示すとみられる「否視」という語と並んで裸体の上に重なるように描かれている。また画面には、先史時代の洞窟壁画に描かれる「牛」のような像のシルエットや、踊る女性、神殿のようなもの、テレビ・ゲームに出てくるキャラクターのようなものなどが2cmほどと小さくところどころに描かれているが、画面下半分の背景となる神殿の壁や階段ようなイメージとこれら様々な要素は多層をなしつつも、それぞれが薄く透き通るように描写されることで、渾然一体とした意識の中の一つの景観と化している。
 「INVISI」にまつわる文字が裸体に隠され、その一部だけが覗くもう一点では、裸体や背景としての神殿、さらに数を増して画面にあふれるキャラクターなどの要素は共通しながら、「しゅーかんしんちょー」「ゆきぐにまいたけ」などといった手書きの文字が登場し、同じく薄い鉛筆による画面を眺めた際には様々な要素は埋没し一つのイメージとなり、ある部分を意識的に見た際にはそれら一つ一つとの小さな関わりが発生するという特徴は、前出の作品と全く一致している。
 また、ファイリングされた作品では、同じイメージながらも画像処理によって彩色と共に階調が荒らされて「INVISI」の部分が際だったもの、「INVISI」は共通しながら女性のポーズが変わり、何かの記号を示すようなイメージが画面に散りばめられたもの、そうしたイメージが鮮明な色彩を使ったパターンで彩られたもの、「INVISI」に代わって「チゼルポイントのとぎ落とし」という見出しの文面が画面下方を覆うものなど、裸体とことばが、ポーズと文面、書体、色彩といった要素の組み合わせによって多彩なバリエーション群となったほか、前出の「牛」「神殿」のイメージによるバリエーションなども行われている。
 これらの作品に含まれる意味について考えてみよう。ここでの主要な要素は「裸体」と「INVISI」である。裸体は一般的には「エロス」を象徴するが、それが「否視」と訳される語と組み合わさることで、この素通しの裸体は「隠されようとする」ことを前提にしつつあるかたちとになって現れたものの象徴であるように思われる。また、この2つと重なるようにして小さく描写された様々な要素の断片は、山本が現実の世界の中で出会ったであろう様々な事象がかたちを変えた末のものであるとも取れるが、裸体に象徴される「隠されつつかたちとなったもの」が、人の意識の内に在る「世界」を暗に示すとすれば、「世界」の事象とイメージとしての「世界」が一つの画面の中で一体となって重なる様は、渾然一体として在る「世界」の在り方のみならず、意識の中での私たちと「世界」とのやり取やの場を、造形に姿を移して表しているような気がしてならないのだ。
 
 ところで、山本が作品を制作するのにあたってもっとも大きな意味を担っているのが、彼が現実の中で出会ったさまざまなイメージを「書き写す」行為であり、そこでは、文字、テキスト、画像などあらゆるものが鉛筆なその画材によって精緻に写される。これを彼は、今回の展覧会で「CODEX(写本)」というタイトルをもって言い表しているが、「写し取られた」さまざまなモノたちが均一の質感で描写される画面を見るにつけて私は、砂漠の中の細かな砂に、古代遺跡の遺物が埋もれて並ぶ様をふと空想させられたのだ。
 なぜそのようなイメージが沸き上がったのか。彼によって書き写された対象は、たとえそれが具体的なことばであっても、モノとしての元の面影は残らずに、そこに含まれていた「意味」だけが写し取られることとなる。そこでは、現実のモノが山本の意識の中のイメージにたぐり寄せられて「抜け殻」となった姿を見て取ることができるが、そこに現われる一種の空疎感は、元の意味を失ってただの物体となった、遺跡の埋蔵品がまとう空疎さと重なり合う部分があり、それが私にそうした空想を抱かせるのではなかろうか。
 山本にとっての「写本」に話を戻そう。「写し取られたもの」は、二次元上に表わされた時点で彼のイメージの産物となるが、「写し取る」こと自体を、彼と「世界」との接点を模索し構築する行為として考えれば、画面上に現われた二次元上のイメージは、記憶をはじめとする山本の意識の奥底にある「何か」が「世界」と出会い、その時にそこで感じ取ったさまざまなことが、あたかも意識の表層が支持体の上に降り積もるように剥がれ落ち、その末に「かたち」となったものであるように思われてならないのである。

 ここまで、私が山本の作品と相対して感じ取ったこと、こうした私の所感に対して返ってきた山本の思考やことば、そこからさらに私が想起したことについて触れてきたが、彼の表現の根幹をなす「否視 INVISI」、そして「書き写す」行為とは、私たちが現実の中で出会い目にしたモノや事象が実際にはその真の姿をもって感じ取られるわけではなく、個々の意識や記憶に根ざした「フィルター」のようなものを通して浮かび上がる「存在の影」こそが、まさしくその正体であるという思考がもとになっていると思われる。この「フィルター」とはすでに述べたように、一方で外界のものを内に取り入れて同化させ、その一方で内に在るものを外界に放出して異化させるという、私たちと「世界」とを「相互浸透」させるための象徴としての「皮膜」であり、視えざる真の「世界」はこの「皮膜」を通してかたちとなり、私たちの意識に新たなイメージを植え付けた後、記憶となってその奥底に堆積してゆくのである。今回行われる展覧会の中で私たちは、山本が創出する「視えざる世界の影」との出会いを体験することになるが、それは、どのような記憶となって私たちの意識の内に降り積もりその一部となるだろうか。
篠原 展示の打ち合わせに際して山本さんから送っていただいたメールの文中で 、「写本」と称した、「書き写す」ということがまず最初に出てきましたけれども、その中で、もとのテキストを袋文字にして写すとドーパミンの嵐を促すような興奮を覚えるというくだりがありましたよね。それは、元の文字を見た瞬間に何か特別な感覚を感じるんですか。
山本 文字というよりは、テキストの内容なのかなあ。広告のチラシがあるじゃないですか。家電製品とか、ホームセンターのものとか。その中でも普通の内容のものだとピンと来なくて、何か変なものがその中にあるとすごく興味を引かれるんです。以前、お墓に持って行くための「線香火付け機」というものの広告があって、いういなれば「チャッカマン」のようなものですけれども、その形がすごく変で、そこに引かれたことがあります。
篠原 そうやって引かれるものは、次々と移り変わってゆくんですか。その中には、何かしらの共通点はないと思ってよいんですか。
山本 「おもしろい」ということだけしか共通点はないんです。だから、古代文字みたいなものでも新聞のチラシみたいなものでも、この、「おもしろい」ということだけ唯一の共通点なんでしょうかね。
篠原 私はこれを「山本さんの写本心」と密かに呼んでいますけれども、いろいろある中で、写したいものと、特に写さなくてもよいものとの間にある違いは何ですか。
山本 「写す」ということは、何かを自分の中に取り入れることだと思うんです。それは、ものを食べるときにおいしいものを食べようとすることと一緒で、写すための自分にとって「おいしい」対象があって、「写す」という行為で取り入れることによって喜びを感じるんですね。
篠原 写したいおもしろい対象があったとして、それをどのように写すかというイメージは最初からあるですか。たとえば、袋文字なら陰影が付くこともありますよね。それには何かパターンがあって、写す前から完成形が頭に浮かぶんですか。
山本 ある程度は考えるんです。パターンをつくるときもあるんです。たとえば、新聞を写すときに全部平仮名にするとか。
篠原 あとは、実際に写してゆく中で完成されてゆくということですか。
山本 そうですね。
篠原 写されたものは、作品としての一枚の画像になるわけですか。山本さんの作品にはいろいろな要素が混ざっていますよね。
山本 出来上がった結果のものということですか。
篠原 そうです。あと、写した要素の中には、一つの画面の中でそれぞれ写したときの時間差がありますよね。そういった時間差について私が考えたことは、写す瞬間に感じたことや、写す行為に費やした時間そのものをコラージュしてゆくような感覚が山本さんの中にあるんじゃないだろうかということなんです。
山本 写したものをCGで一枚に合成することもあるんです。
篠原 その合成は、イメージ自体のコラージュだと考えていいんでしょうか。
山本 そういうことですね。
篠原 そうなると、二度写すことになるわけですね。つまり一回目は手で写して、二回目は最初に写したイメージをCGでトレースするわけですけれども、二つの間の感覚的な違いはどこにあるんでしょうか。
山本 基本的にはないと思うんです。一度鉛筆の作品が出来てそれをスキャナーで取り込む。それをさらにいろいろな画像と合成してCGが出来上がる。それをまた鉛筆で写すということをするものだから、CGがもとで鉛筆が作品だというわけではないんです。
篠原 二度楽しむということでしょうか。
山本 何度でもです。繰り返しながら。
篠原 何度も違うことを写しているということでしょうか。
山本 結局そういうことですね。写すということに正直になれば、写す対象についてのいろいろな問題がどんどんなくなってしまう。そして対象の方に意識を向ければ、写すことは単なる行為になってくる。そうした両極端のグレーゾーンの中にあるという感じでしょうか。
篠原 一枚の画面の中にいろいろな要素があるとして、それを結び付けるのはどういったものなんでしょうか。
山本 それをあえて探し出すとすれば、自我形成ということでしょうか。
篠原 それは、記憶に関係することですか。
山本 記憶というよりも、自我の生成ですね。以前、ミラーニューロンの話をしましたけれども、人が何か学習するときに、ミラーニューロンという「コピー」するための脳細胞があって、人の行為でもことばでも、いろいろなものを真似する内に自我が形成されてゆく。「写す」ということには、そういう意味があるのかなあと。
篠原 そうした自我をもとにして作品が成り立っているということでしょうか。
山本 私の場合はちょっと違って、お送りした文章の中で、暗闇の中で裸電球の灯が大きくなったり小さくなったりする時の話がありましたよね。その光が照らしているのはその範囲内だけれども、実は光だから、極端に言えば全宇宙に届いているはずなんですね。それと一緒で、一人の人間の自我というものは、極端に言えば全宇宙に広がってゆく。けれども、なぜ自我という意識が生じるかを考えてみると、猫とか犬とか動物の行動を見ていると、人間ほどは自我の意識は強くなくて、人間のものをくっきりしたスポットライトの光だとすれば、もっとぼやけた拡散した光で、どこが境界かはあまり気にならないのかもしれない。
篠原 テキストには、他者との区別があいまいだという意味で幼児の自我の話が出ていましたよね。
山本 一人の人が自分という意識を確立してゆく段階において、外界のものをコピーするという行為の中に、写す自分と写される対象を追ってゆくことがあるんですね。そうるすと、オリジナリティーというものをどこに求めるかという問題になってくるわけですけれども、本当にオリジナルなものということになった場合、たとえばある人が、オリジナルなテキストを書いたとしたら、その人以外誰にも読めないものになるはずなんです。誰かが読めるということは、ある程度共通項があるということだから、そうなるとそこでオリジナリティーは崩壊してしまう。そうすると、唯一無二で他の何者でもないものとは、おそらく認識さえできないのではないか。何か認識できるということは、どこかに共通項があるわけですよね。そうすると、結局この世界のものについて、「individuality」 つまり個性、個別性というものがどこから生まれてくるんだろうかことがあって、おそらくもともとは全体だったところに、なぜ「individuality」、 つまり個性が発生するのということが、アートにとっても哲学にとっても、何にとっても非常におもしろい部分なのではないかと思うんです。
篠原 作品の話に戻るんですけれども、山本さんが写す対象にしているものは、いろいろなものに出会ったその時の感覚が記憶となって意識の中に堆積して、それが意識や自我そのものをつくっているように思うんです。さきほどの自我の話とも関係してくるんですけれども、記憶や自我のもとになるものと、制作することやできた作品との関わりはどこにあるんでしょうか。それに絡めて私は、自己の意識の中に在って自我と外界とを隔てているものを不可視の「皮膜」としてテキストの中に書いたんですけれども、それが、山本さんの意識のうちに溜まっているものと作品との関係でいうと、視えない「皮膜」を境にして、意識の中のものが内側に飛び出ることと重なり合うように思うんですが。
山本 それはどこまでを「支配」するかという問題になると思うんです。たとえば、仕事なんかでいろいろなことをしますよね。仕事というのは、世の中の歯車の一つにならなければならないから、どうしても支配領域が限定されてきます。自分が支配する領域というのは、かなり限定されてしまう。そして作品の場合は、それが最大限まで広げられると思うんです。だから、さきほどの「皮膜」や境界の話も、それは固定的なものではなくて、支配領域だと思うんです。「支配」ということばは語感が良くないんですけれども、自分がどこまで能動的に関われるかということで、その領域をいろいろな人に広げたい。そうすると、いろいろな人との関係で、どうしても受動にならざるを得ない部分がある。だから、そういった支配領域つまり能動性の領域というものをかなり遠くまで広げてしまえば、自我の境界もかなり遠くなるのではないでしょうか。そして、あまり支配領域がない場合は、自我の領域もどんどん狭まって、最後には自分の皮膚まで後退するということになる、だから、「支配」というのは語感は悪いけれどもキーワードになるんではないでしょうか。
篠原 山本さんから送っていただいたテキストの中で、作品が裸になって全てがさらされることは良くないという部分がありましたけれども、裸でない状態を目指した作品というのは、山本さんの作品に関しては何がどう隠されているんでしょうか。
山本 私が最初にガレリア・フィナルテで展示したときには、ビニールにアイロンでいろいろな画像や文字を転写して、その後ろにアクリル画を置いたんです。しかも部屋の中は真暗にして来た人はろうそくを持って見るという会場構成にしたんです。その時は、かなりの程度「隠す」ということを意識していてやってみたわけです。
篠原 最後に送っていただいた「皮膜」に関するテキストの中の「漸近」について部分で、目の前にあるのにどうしても到達しないというくだりがありましたけれども、視えない「皮膜」は自分の意識を通過しながらどうしても触れることは出来ないということに、隠されたイメージというものの存在がかなり近いと思ったんです。私はそのことに関して、出会ったものの「影」が、そのものの真実の姿なんじゃないだろうかというテキストを書きましたけれども、それと深い関わりがあるようにも考えているんです。
山本 ものの「影」というのはプラトンの「洞窟」の比喩のようなものでしょうか。
篠原 「影」というのは、実際に出会ったものの記憶ということなんですけれども、それと隠された、もしくは隠されようとしているものは同じような存在なんじゃないかと考えたです。ケ
山本 そのあたりを突き詰めてゆくと、「真実在」というんでしょうか、本当に存在するものとはいったい何なんだろうかという話になってくると思うんです。結局「真実在」というものがないとすれば、全てが幻ということになってしまうわけで、「真実在」が存在するとなると、今度はそこに向かってどう近づいてゆくかという話になってしまう。
篠原 そうなると、作品の存在とは何なんでしょうか。
山本 ごく普通のイメージになりますけれども、一種の出会いの中で痕跡を残すというものなのかなあとしか思えないんです。
篠原 確かにそうで、特に山本もとさんの作品はそうした傾向が強いと思うんです。
山本 そうかもしれません。私自身は、「真実在」は存在するという意見が好きなものですから、自分自身がいろいろなことをやっても、結局最後にはどうしてもそこに向かってゆく、しかしたどり着くことは出来ないんです。
篠原 では、山本さんにとっての「真実在」とは、どのようなものなのでしょうか。
山本 それはおそらく、カントが言っている「物自体」、「ヌメノン」という概念が一番ぴったりとくるんじゃないでしょうか。「物自体」、「ヌメノン」は存在する。しかし認識することはできない。という考えが私には一番ぴったりとくるように思います。
Vol:12 高橋理加(2005年8月)『ヒト機能取扱説明書』
 人の「生」と「死」は、さながら「光」と「影」のような関係にあるのではなかろうか。そしてこの仮説の中で考慮したいのは、「生」が「光」を、「死」が「影」を表すだけではなく、その逆の関係も成り立ち得るという点である。
 私たちは、心の内で「生」の在り方について思いを巡らせるとき、意識的あるいは無意識的に、その背後に控える、死せる時間と空間の存在を常に感じ取っている。そして、その存在感の圧倒的な大きさは、私たちの「生」が、死せる領域によって私たちが照らし出される際に現実の世界に落ちる、「影」の実体のようなものではないかと思われるほどである。もちろん、私たちの「生」が限られた時間のものであるにせよ、世界の中で光り輝く存在であることに変わりはないが、以上の事実をふまえると「生」と「死」は、双方が「光」と「影」の性質をまといながら、一方は現実の中で、もう一方は意識の内で互いを照らし合うことで人の存在そのものを成り立たせているといえるのではなかろうか。
 高橋理加は、牛乳パックなどの再生紙を素材として人体をリアルにかたどった、紙の地の白い色彩で印象付けられる立体作品を主に制作しているが、人の輪郭のみを示すようなこの白い立体を見るにつけて、私は、人が意識の内でかたちづくる、「生」そのものを照らし出して存在する「死」の領域を象徴しているように思われてならないのだ。こうしたことを特に強く感じたのは、2003年にGallry ART SPACEで行われた田通営一との二人展『影の劇場』の際だった。
 この展覧会では、田通が壁面に設置した大量の蛍光灯の光が、高橋による、壁から上半身が生え出るような白い人体および、床に溶け込むように設置された黒い平面の人型を照らし出すという展示が行われたが、このまさしく「影」のような黒い人体は、人の「死」にまつわる何ものかを象徴しており、作品を見つめ続けているうちに、彼女がつくる全ての白い立体作品も同様に、意識の内に在る「死」の領域を、あたかもそれが「生」を彩るものであると見紛うほどにまばゆく表しているのではないかという考えにいたったのである。
 では、なぜ彼女の作品からは「生」と「死」の存在が感じ取られるのだろうか。輪郭や突起はあっても造作の全てがモノトーンに埋没するその姿が、実体から抜け出た魂を想像させることも理由の一つにあげられるが、高橋が寺に生まれ育ち、人の「死」を身近に感じてきたという生い立ちも、彼女がそれを意識しているかどうかに関わらず、理由の一つに数え上げることができるだろう。

 今回行われる『ヒト機能取扱説明書』は、本来は空白である人体の表面にある文字の連なりを印した作品によって展示が構成されるが、意識の内でしかとらえられない自身の「死」を光り輝くかたちとすることが高橋の作品の特徴であるとすれば、今回の作品を通して語られるであろう語法は、これまでとは以下のように異なるものとなるはずだ、つまり、「光」や「影」など実体無きものを表してきた彼女の人体が、「文字」という何らかの概念を背負うことで、「影」であったはずの人体は、ある性質を与えられてにわかに実体を帯び、高橋自身や観客である私たち自身の意識に根差すだけではない、一個の独立した存在となることが予想されるのである。では、ここで文字が印される「彼ら」は、どのような意味を与えられるのか。
 この展覧会には、『ヒト機能取扱説明書』という不思議なタイトルが冠されているが、それを高橋のこれまでの制作をもとに解いてみると、これは、人間の在り方の本質を人体という存在を通して定義付けるための「マニュアル」であると思われる。「取扱説明書」つまり「マニュアル」とは、実際には体験することなく一つの現実をバーチャルに知るためのものであるが、人の機能についてのものとなると、究極的には、観念の中のものでしかない自らの「死」にまつわるものであろう。それらがテキストを伴うことで、観念をその内にかくして成り立っていた白い人体は、「死」の領域を示す存在から現実の姿を求めて「かたち」となり、さらに、彼女の作品と相対する私たちは、「死」があってこそ光り輝く意義を持つ、人の「生」の在り方に思いをはせることができるのである。
篠原 展覧会のためのテキストの中で、高橋さんの実家が「寺」であることに触れましたけれども、どうしてそうしたことを書いたかというと、以前、知人の実家の寺に泊めてもらったときに、滞在中に葬儀があって、そうすると夜寝ている隣の部屋に仏様が安置されているわけですよね。それは普通の家庭ではあり得ないことで、そうした生い立ちの中では、「死」を受容する意識が明らかに異なって育つんではないかと思ったんです。
高橋 そういう意味では、「生死」、あるいは「霊」、「魂」に関しては変わった認識というか、慣れ親しみがあるかもしれません。
篠原 慣れ親しむというよりも、そうしたものに対する受容の幅が大きいような気がします。
高橋 拒否感はないですね。
篠原 一般的に死ぬことを忌み嫌うという風潮はありますよね。私の場合は、神社と同じような環境で生れ育ちましたけれども、昔ながらの神道の場合、若くして死んだ人は別にして、死ぬことは祝い事の一つなんですよね。そうしたことを見ながら育ってきたので、高橋さんにとってのものとはまた違った意味で、死に対する受容の意識を実感することができるんです。
高橋 死ぬことがすごく恐いことであるとか、死によって全てが終わってしまうとか、そういう恐怖感はあまりないですね。
篠原 東南アジアなんかでも死ぬことは祝い事で、葬列の華やかさには圧倒されますよね。
高橋 日本の農村でも、昔の葬列は花嫁行列に似ていますね。
篠原 ところで、高橋さんの「人体」の作品ですけれども、それは高橋さんのもう一つの姿であるような気がしているんです。高橋さん自身がモデルになっているということではなくて、高橋さんという存在から記憶や意識をいっさい削り取って、自分で自分を俯瞰しているようなものであるというイメージが最初からあるんです。
高橋 それは他の作家さんにもあると思うんですけれども、自分でつくったものは、やはり自分の中の一部が抜け出たものであるという・・・。
篠原 確かにそういう部分もあるんだけれども、高橋さんの立体の場合には、高橋さん自身の自我の輪郭のみを表しているように思えるんです。そうした輪郭だけがリアルに現れているというか。実際作品は全部「白」の色彩だから、光を強くあてると細かい造作は見えなくて、輪郭しか分からないですよね。
高橋 本当に薄ぼんやりした存在といえばそうかもしれない。でも、立体だから3次元の空間はしっかりと占めて、何ともいえない存在感があるんです。
篠原 心理的な部分の内容を語らずに、かたちだけはしっかりと存在しているという印象なんです。そのための白い色であるような気がします。高橋さんつくる全面が黒い色彩の作品も意味は同じですよね。
高橋 白も黒も基本的には同じすね。自然の中の造作物をよりリアルに感じるときには、カラーがあった方がいいんでしょうけれども。私の場合、等身大の小学生にしろ、現実っぽいものをつくるときの方が白や黒の作品になりますよね。見ているものが人であれ何であれ、確かに自分自身ではあるんだけれども、もしかしたら記憶の中にあるかたちなのかなという気もするんです。
篠原 記憶の中のイメージということですか。
高橋 白くする意味や黒くする意味というよりは、そう見えたり感じたりするというか・・・。
篠原 白にしても黒にしても、素材自体の色がそのまま表面に出ているわけですよね。それは、どうして紙を使っているかということにもつながってきますが、紙を素材としたのは、まずこの「白」の色彩のイメージが最初からあったんですか。それとも、まず紙を素材とするイメージがあって、それに付随して白の作品になったんですか。
高橋 うーん。
篠原 では質問を替えて、どうして紙だったんでしょう、重量感の問題もあるでしょうけれども。
高橋 もともと日本画で絵を描いていたんですけれども、日本画ではまずパネルに高級な和紙を張ってから描き出すわけですね。大学時代の課題で、2畳分くらいの画面を張っていて、その時に、張った紙がそのままでも十分美しいのに何でそこに絵を描くんだろうという疑問が生れてしまっんです。そこで、どうして紙の白さが奇麗なんだろうという点がずっと引っかかってて。手を加えていない素材が奇麗とか好きということではない部分で、そこに何でも入り込む可能性というか、紙の白さがすごく魅力的に感じたんです。私の作品では白といっても厳密には生なりの色なんですが。紙って、何も手を加えられていない状態ではすごく呼吸感があるというか、吸収するような、「よりしろ」的なものを感じて、そこが魅力だと思うんです。何でもできそうな気がする。
篠原 それに加えて、全てが終わった後のようなイメージも強くあるんではないでしょうか。最初に「死」のイメージについて話しましたけれども、それは一つには、全部抜け落ちた後の魂のイメージとつながってくるんです。「ゲゲゲの鬼太郎」で死んだ人の魂を洗濯してしまい込んでゆく場面がありますよね。ああいうイメージなんです。この場面での洗濯って、全部の記憶を消す作業でしたよね。記憶を無くすと一枚一枚が魂の白いシーツのようになるという。
高橋 自分の作品に関しては、そんなに奇麗に洗濯されてはいない感じがします。
篠原 そこには何が残っていると思いますか。何を消して何を残したいかといった方がいいかもしれないけれども。
高橋 記憶でも何でも、個人の個性とか自分の持っている部分を消したくて、残したいのはどちらかというとそれ以外のところでしょうか。
篠原 「それ以外」で一番重要な部分は何でしょう。
高橋 どうでしょう。何を残したいのかという考えでは今までやってこなかったので。篠原 何かを残したいという意識はあるんですか。
高橋 自分がつくったものを第三者が見て何かをすくい取ってもらいたいという気持ちがあるんで、やはりそこに何かが付いていないと。
篠原 その何かって、流動的なものなのかもしれないですね。
高橋 その都度変わってゆくのかもしれない。
篠原 何せ作品自体が真っ白だから。
高橋 可能性の美しさというのかな。何でもできるような気がするのは、そこにおおもとがあるのかもしれない。だから、次から次へといろいろな作品が沸いて出てくるんであって。あの白い紙だったら、全部ぶ受け入れてくれそうな気がするんですね
篠原 今度の展覧会では作品に文字が入りますが、その文字は、作品の中では実際に意味を持って出てくるんですか。
高橋 今回文字を付けるのは、前回の展覧会で音を付けたのと同じような気持ちでいるんです。
篠原 ただ文字を付けただけで、それがどんな内容であれ、かなり現実に引き戻されるなという気はするんです。自分の中からかなり遠いところに放り出されるとでもいうんでしょうか。
高橋 文字が入ることによって、一つの方向性のようなものが見えるのかもしれないですね。
篠原 どういった方向性ですか。
高橋 文字に示されていることというのは、皆さんがすごく読み解きたい部分というか、読み解くための手がかりにされてしまうので、ことばの直接的な説明になるような方向には行きたくないんです。
篠原 今回の展覧会のコンセプトについて、高橋さんは「マニュアル」ということばを使われていますけれども、今回の作品の中には「マニュアル」的な文字は当然入らないですよね。
高橋 「マニュアル」というのは大前提です。「マニュアル」について最近思うのは、効かない薬じゃないかということで、人はどうして「マニュアル」を求めるんだろうと考えたときに、「マニュアル」というのは、いわゆる現実に生きる以外の方法で、仮に頭の中でいろいろな方法なり行為を体験してみるということなんですね。それをどうして人が必要とするかというと、現実に立ち向かったり面と向かたっり、あるいは現実と出くわすことに対する不安を掻き消すためで。今の時代はサプリからドラッグまで、薬に走るのが何といっても一番お手軽な方法ですけれども、薬というのは体に効くというよりも、むしろ脳に効くものが多いですよね。「マニュアル」というのは効かない薬なんじゃないかな。効かないというのはどいうことかというと、不安をもとにしている場合だと、頭の中でバーチャルに体験してみても本当の意味でのその人の不安を取り除くことにはならなくて、実際には効かないんだけれども何となく効いたような気がして、一時的に安心感が得られるのが「マニュアル」なのかなと思うんです。
篠原 それが今回の作品では、「人体」に付いているわけですよね。
高橋 何で「マニュアル」が人にくっ付いているんだろうって見る人は混乱されたりすると思うんですけれども、それが結構面白いかなあと。「マニュアル」って何だろうということ自体も、普段とてもお世話になっていながらあまり顧みられていないうこともありますし。アートの面白いところって、作品と面と向かうことの現実を楽しむという部分が大きくて、「マニュアル」って何だろうと考えてみることで、新しい作品との出会い方が見えてくればいいんじゃないかなと思うんです。



Vol:13 安藤順健(2005年9月)『Approach to Islam』
 個展のシリーズ企画「dialogue」の第13弾。日本に住む外国人イスラム教徒へのインタビュー映像をもとに構成されるインスタレーション。インタビューは主に、埼玉など東京近郊のモスクを拠点に行われた。

 現代社会の中でのムスリム(=イスラム教徒 *「イスラム」は近年「イスラーム」と表記されるのが正しく、以下「イスラーム」と表記)について私が抱いているイメージは、これがイスラム教の国々に対する正しい知識であるかどうかは別にして、「砂漠の国々」「モスクがそびえコーランの音が流れる街並み」「サッカー日本代表との数々の戦い」「頻繁に起こる地域紛争」など、断片的なものでしかなく、良しにつけ悪しきにつけ実に貧困だ。いや、日本に住む多くの人々が、曖昧な認識しか持ち合わせていないのではなかろうか。しかし、実際に今の日本には約10万人の外国人ムスリムが暮らしていると言われ、首都圏ではらモスクの建物が時折見かけられることもある(安藤によると日本には約60のモスクがあるということだ)。
 この展覧会は、日本に暮らす外国人ムスリムの人々の日常をもとに制作したドキュメンタリー映像を核として構成されるが、作者でもある安藤も、いわゆる「9.11」以降、イスラーム教に対する関心が高まり、その末に今回の展示プランに至ったという。確かにあの一連の大きな出来事は、誤ったものも多分に含みながら、「イスラーム」の存在を私たちに強烈に印象付けた。世界各地でのムスリムに対する言われなき迫害も一部で報道されたが、日本に住む私たちにとっては、これまでのムスリムについてのイメージが曖昧であったのと同じように、やはり、手が届きそうで触れることのできないイメージの内の存在としてしか認識されないように思われてならないのだ。そんな中で安藤は、何に衝き動かされてイスラム教の人々と関わり、これを表現に結実させようとしているのだろうか。
 彼が宗教と何らかの関連がある作品を発表するのは、これが初めてではない。たとえば、キリスト教の聖典の一つ「パウロの書簡」のテキストを印字した後のインクリボン3層分および、イエス・キリストの図像をライトボックス上にコラージュし、重なり合うそれらを光の透過で浮かび上がらせることで、「転写」という手法自体がキリスト教における「ヴェロニカの聖布」や「聖骸布」の存在を思い起こさせるレリーフ作品(『Shroud』)、あるいはイエス・キリストを描いたさまざまな絵画、映画、マンガなどを編集したものおよび、多種多様なキリスト教音楽のサンプリングをもとにカンタータ形式で制作した音楽によって構成される映像作品(『KANTATE』)等。
 これらの作品から私が感じることは、キリスト教という宗教そのものが、教義という名のかたちとなる以前の人の思念を、視覚や聴覚を通してリアルさを伴ったイメージとさせ、そうしたイメージが多くの人々の意識に内に次々と伝播してゆく道筋がキリスト教の原点にあり、それを安藤が造形として表現したものだという点である。一方、宗教にまつわるイメージを追ったものではなく、私たちの身近に暮らすムスリムの日常をモチーフとする今回の映像作品では、リアルな日常の中での信者の姿を通して現実の中に息づく宗教の実像に肉薄したいという、「宗教」そのもの対する彼自身の視線がかたちとなることが予測される。
 ところで先日、安藤が方位磁石を手にギャラリーに現れた。ギャラリーの空間)の中で、どの方向にイスラム教の聖地「メッカ」(「メッカ」は近年「マッカ」と表記されるのが正しく、以下「マッカ」と表記が位置するかを正確に測定するためだ。全世界に点在するモスクの壁には、「マッカ」の方位を示す「ミフラーブ」と呼ばれる窪みが設けられ、信者はそこに向かって朝夕の祈りを捧げる日常を送っているという。この展覧会では「ミフラーブ」を模した壁の窪みを造形として「マッカ」の方位に設営し、日本に暮らすムスリムの日常をもとにしたドキュメンタリー映像をそこに投影するという展示が予定されているが、このプランを予め聞いていた私は、磁石で「メッカ」の方位を割り出そうとする彼の姿を見るにつけ、単に作品発表のための行程としてだけではなく、すべてのムスリムの意識の内に灯る「マッカ」への視線をトレースすることをもって、この展覧会を通してムスリムに接近しようとする彼の意志に触れることができたような気がしたのである。
安藤順健へのインタビュー(聞き手:篠原誠司)
篠原 ムスリム(イスラム教徒)の人たちの存在をあえて意識するようになる以前は、彼らに対してどのような知識や感情を持っていましたか。
安藤 起源的な話でいえば、セム系の宗教だとかそういう知識はありましたけれども、自分とは縁がないものだと思っていました。
篠原 教徒の人たちへのということよりも、宗教自体に対するものということでしょうか。身近なイメージとしては、何か代表的なものはありますか。
安藤 パレスチナの問題ということでは意識はしていました。
篠原 今のようにあえて意識するようになったきっかけは何ですか。
安藤 やはり「9.11」以降ですね。
篠原 その時の感情はどのようなものでしたか。
安藤 まず、イスラム教やイスラム教徒に対する西洋のネガティブなリアクションというものに反応して、それは違うだろうと思いましたね。特にあの時は、西洋のキリスト教の根強さというものを感じました。それはずっと続いていて、今もヨーロッパはカトリックにどんどん回帰して行くような印象すら受けます。そういうものに対する反発はありました。
篠原 今回、ムスリムにインタビューをしていますが。
安藤 インタビューだけではなくて、モスクでの活動やムスリムの人の個人の生活に密着して追っています。
篠原 今の時点で何人くらいですか。
安藤 個人をピックアップして取材しているのは今のところ3人です。ただ、モスクに行くと、特に金曜日なんかは百人くらいのムスリムが集まってくるので、自然とそうゆう人たちと仲良くなって撮らせてもらったりしています。
篠原 ある程度撮った後で、彼らに対するイメージや感情で新たに出てきたことはありますか。
安藤 全然刷新されたといってもいいと思います。単純にムスリムといっても、当たり前の話ですがいろいろあるということは感覚として解かるようになりました。
篠原 国も違いますしね。
安藤 イスラム圏というのはそうとう広い地域に渡っているというのもあるし。
篠原 ヨーロッパの端まで浸透しているわけですものね。
安藤 今時々行くモスクも、パキスタンの人が中心ですけれども、トルコやインド、セネガル・・・。割りとアラブの人は日本では少ないですね。ただ、ずっと取材はしているんですけれども、撮影させてくれるというところまでゆくのは、相当関係を築かないとできないんです。かなり付き合って気心が知れてこないと撮影までは難しくて、モスクに泊まったり、ムスリムの人の家にお邪魔したりというのは数多くしていても、実際に撮影しているというのはあまりないんです。特に僕は、最初に合うときはカメラは持ってゆかないので。でも、一番最初に会ったときに一番おもしろい話をいろいろしてくれるというように、ファースト・コンタクトの時が一番おもしろいんですけれども、その時にはカメラは持っていってないので、結局、たいていは一番おもしろいところが撮れていないんですね。
篠原 取材の対象にはどうやって出会うんですか。
安藤 こちらから押しかけてゆくわけです。
篠原 それは、たとえばこの人ならどうだろうとか、そういう情報が入るんですか。
安藤 まずモスクに行ってそこの責任者に話を通すんです。それで、居てもいいという感じになったらモスクに通っていろいろな人と知り合って、その中から仲良くなった人に取材をお願いするんです。
篠原 映像まで至る過程にたどり着くには、ある一線を越えるわけだけれども、その人たちは、撮ることができなかった人とどういった違いがあると思いますか。
安藤 仲良くなったということもありますし、あとイスラムのある種の責任者という人たちになると、イスラムのことを知って欲しいという意志を持って取材に応じてくれるということがあります。ただそれでも、この間ロンドンのテロがあって、あれで向こうの態度が硬化してしまって、かなり取材しにくい状況になってしまいました。モスクにいろいろなメディアやマスコミも来て、それで、しばらく落ち着くまでは取材に応じたくないということがありました。
篠原 それで、取材の結果を作品にまとめてゆくわけですけれども、どうゆうふうなまとめ方をしてゆくんでしょう。撮った映像を編集することになるんでしょうけれども、映像には残らない膨大な時間がありますよね。それは作品にどのように反映させるんでしょうか。
安藤 それが微妙なところで、今回ドキュメンタリーを撮ろうと思ったのは、単純にイスラムについてもっと知りたいという動機から始まっていて、よく知るのに一番いい手立てがドキュメンタリーだろうということで撮り始めたんです。つまり、作品をつくるというよりも、僕自身が知りたいということだったんです。たとえば、写真家の港千尋が去年ドキュメンタリーを撮っていたんですけれども、その時に、ドキュメンタリーというのは知ろうとする行為を通して知らなかったことが見えてくるプロセスの記録だということを言っていて、それが今回の作品にもかなり当てはまるなあと思っています。
篠原 それを辿ろうとしているわけですか。
安藤 そうですね。実際のところ撮れていないんですけれども、撮ったものは作品にまとめるとしても、僕の中ではかなりいろいろあったというところで・・・。それが難しいところで、作品として仕上げるモチベーションをもう一つ見つけないと、完成させることが出来ないという危惧があって。今回ギャラリーでインスタレーションのかたちでやるのは、見せるように考える機会をもらったということで、ある程度区切りとして良かったなあと思っているんです。
篠原 映像としての最終的なかたちはどのようなものを想定していますか。やはり上映ということになるんでしょうけれども。
安藤 映画として完成させるということですね。
篠原 上映となるとやはりフィルムに落とすんですか。
安藤 一応DVDで撮っているんですけれども、必要であればフィルムにキネコ(?)してもいいですし。
篠原 ところで映像の場合は、取材の過程はどのように結晶してゆくんでしょう。
安藤 ある程度の関係が築かれているというのは、多分見てもらえば出ているんじゃないかという気はします。
篠原 映像として完成させるには、結局、関係をつくってゆくというその過程の部分を追求してゆくことになるんでしょうか。
安藤 そうですね。だから、自分としてはパフォーマンスに近いものなんだなと思っています。
篠原 今回撮っていて一番印象的だったことはなんですか。
安藤 イスラムのコミュニティーのある種の強さというのは感じます。
篠原 それは彼らにとって外国の地であるからということ以外に、それを越えて何かその理由があるんでしょうか。
安藤 そうだと思います。日本にいるからということもあるんでしょうけれども、これはどこの国いってもこうなんだろうなとは思いますね。
篠原 それを感じる具体的なエピソードは何かありましたか。
安藤 僕が仲良くしてもらっているトルコの人は、日本に長くいるんですけれども、怪我をしたりいろいろあって、仕事にも就けない状況だったんですけれども、モスクへ行けばとりあえず何とかしてもらえる、モスクがあったおかげで生きてこれたというようなことがあって、彼を見ていると特にそういうことを感じますね。
篠原 今回の作品のテーマはどういったものなんでしょう。安藤さんの創作の中で共通したテーマがあると思いますが、そこから見た場合、今回の作品はどういった位置付けになるんでしょうか。
安藤 それは宗教ということにもなるんですけれも、たとえば僕らが地味なものとしている近代の世俗的な合理性のようなものが、必ずしも普遍的なものじゃないということを相対化するというか、世界の多くの人間がそういった世俗的な合理性に基づいて考えてはいないという認識をしたいと。自分たちが自明にしているものが全くローカルなものだということを考えるようにしたいということがあります。単純に言えば、近代の合理性というものは近代のヨーロッパ的な起源のものですよね。それは当たり前のものではなくて歴史的なものだという認識ですね。ムスリムの人の信仰している姿を見て、それを相対化してゆくことが出来たらというふうに思っています。
篠原 安藤さんの今までの作品もそうですか。
安藤 そうですね。そういうモチベーションでつくっていることはあるかもしれないです。
篠原 今までの作品と今回の作品を比べて、自分の中でここだけは違うという部分はありますか。
安藤 実際に人に会ってつくってゆかなければいけないということですね。モノを相手にするのではなくて、実際に存在する人と接触することでつくってゆくというのが違うだろうと。
篠原 その効果は時分にどう返ってくると思いますか。
安藤 いろいろあると思いますけれども。
篠原 それをあえてやってみようということですね。
安藤 今回何のコネクションもなく行き当たりばったりで飛び込んでいったら、かなり慣用に受け入れてもらえて、それはちょっとすごいことだなあと思っています。
Vol:14 上覚英島(2005年10月『crossing sight』        
 個展のシリーズ企画「dialogue」の第14弾。「葉ぼたん」などを細密に描いた絵画によって壁面が構成され、そこには画面に現れるものとは別の、観る者の視覚が意識の中で感じ取る新たな「空間」が生み出される。

 人の視覚とは、目にしたものが何であるかを認識するほか、身を置いた空間そのものを把握するための機能を持ち合わせている。前者は言うまでもなく「眼」の働きの代表的なものだが、後者は「眼」自体の機能というよりも、視覚を通して行われる意識の働きといった感が強いのではなかろうか。
 この働きについてさらに踏み込んでみよう。私たちが自身の周囲の空間を認識する際には、まず視覚が主になり、聴覚や触覚などといった様々な感覚がそれを助けて一つの空間像が瞬間的に意識の中に立ち上がる。ところで、「見ること」は瞬間的な体験であり、現実の中ではそうしたものがシームレスに連続することで「時間」が認識される。一方、私たちの意識の内には、かつて体験した様々な場面の記憶が色やかたち、音、触感などの要素に分かれて蓄積されているが、これらの記憶が瞬間的に意識の表面にフィードバックして現れて参照されることで、今の瞬間に「私」がいる「場」がいかなる種類のものであるかが判断され、時間に加えて空間のイメージが出来上がると推測されるのだ。
 視覚の働きに話を戻そう。ここまで「見ること」によって向かい合う対象を認識する作用と、五感や記憶も介在させて空間全体をとらえる作用との関わりについて述べてきたが、これは、対象に焦点を合わせてそれが何であるかをとらえることと、あえて眼の焦点をつくらずに視界全体を亡洋とする視覚の中で感じ取ろうとする行為との関係と、どことなく似通っているのではなかろうか。
 上島覚英が制作する作品は、こうした視覚の切り替えから生まれる「見え方」の変化を具体的に示す存在だといえるだろう。私が彼の作品を最初に見たのは2004年11月に行われたGaller ART SPACEでの個展の際のことで、葉ぼたんを葉の一枚一枚まで細かく描写し、明度を微妙に違えた同系色の絵具で彩色したもの10点を中心にして展示は構成された。ここでは葉ぼたんは、クローズ・アップされた株が画面一杯に描かれたものや、数株が寄り固まって画面を占めるものに描き分けられたが、視点が遠く引いて描写が細かくなればなるほどモチーフは背景に溶け込んで葉ぼたんそのものの存在感は希薄になり、モチーフを表す色彩のみが前面に出てくるような印象を受けたのである。
 クローズ・アップされたモチーフと、群生して背景と溶け合うモチーフ。この両者の違いは、上島自身の視点が葉ぼたんに近寄った状態と、そこから遠ざかった状態での見え方の変化を明確に示しているが、作品を観る私たちは、その変化を個々の作品から感じ取るだけではなく、作品が設置されたギャラリーの壁に近寄ることで、描かれたモチーフの細部を認識し、逆に壁から遠ざかることで、ディテールが消失して色と形が織りなす一つのイメージとなったモチーフの姿をとらえることとなるのだ。
 このように、一点の作品の内部で表される絵画空間としてではなく、展示される全ての作品を視覚でとらえた際に直感的に感じ取る色彩と形をもとにして意識の中に現れる空間こそ、上島の目指す造形的なイメージだと思われるが、それはこれまで述べてきたような、「見ること」を通して自身を包む空間が認識され、その対象自体は認識の仕方によってみえ方が異なってくるという、視覚をめぐる人の意識の在り方を言い表そうとしているような気がしてならないのである。
篠原 「葉ぼたん」を描き始めたきっかけは何ですか。
上島 「葉ぼたん」の造形性ですね。
篠原 「葉ぼたん」一個一個の造形ということですか。
上島 最初はそうです。ただ、一個よりも羅列されていた方が…
篠原 一個の「葉ぼたん」と、それが羅列されているものとの間にどういった違いを感じますか。絵になった状態ではなくて、自分が見ているときの印象でいいんですが。
上島 視点がなくなるんです。
篠原 それは、「葉ぼたん」一個一個のかたちが視覚の中で消えてゆくということですか。
上島 簡単に言うとそうだと思います。
篠原 一個と全体との関係が、作品の重要なテーマになっていると思うんですが、クローズ・アップしたものを描く時には、実際に近寄ってみて摸写をするわけですか。そして全体像を描くときには、実際に遠目で見た感覚で摸写しているんでしょうか。
上島 そうですね。画面自体をオール・オーバーにはしたくないんですけれども、結果的には視点が定まらないというか、周りのよけいな情報が入ってきて焦点が定まらないような状態にしている方が、自分にとっては気持ちがいいんです。
篠原 クローズ・アップを描くというのは、オール・オーバーにならないための方法としてやっているということになるんでしょうか。
上島 実際、オール・オーバーのようなものは自分にとって気持ちがいいんです。ただ、それって1950年代のものですよね。古き良きアメリカの絵画じゃないですか。平面に対して思い切り幻想を抱けていた時期じゃないかなというのがどこかあるんですよね。それを追いかけたところで、皆やってきていることだし、そこに陥ってしまっら何の意味もないと思うんです。
篠原 絵画の要素も作品に組み入れようとしているんですね。
上島 もともと染み付いている部分が自然に出てきてしまうとは思うんです。何年かの間はそういった構図自体を軽くは意識していたんですけれども、意図してほとんど構図らしい構図に持っていかなかった部分があるです。ただ、そうしたことが逆に写真的な構図と言われたりもして…
篠原 写真的なんでしょうか。
上島 作品を見た人からそういうことを言われて。確かに最近写真をよく撮っていますし。以前は形式通りの平面の構図をやっていて、そういうところに、無意識の内に異常に縛られている自分がいたんで、それを解き放ちたいというところがあってやっていたことが、写真っぽいと言われるのかもしれません。
篠原 全然写真的ではないと思うんです。ちゃんと絵画的な空間性を持っていますよね。写真の場合は見た目以上の空間性はありませんから。今回の展覧会では、そういった空間性がテーマになっているわけですが、絵画の場合、見る立ち位置によってその周囲の空間が違って感じられますよね。今制作している作品は、どのくらいの距離を離れて見ることを想定していますか。
上島 距離の想定というところまでは実際には考えていないんです。ただ、1、2m離れた方が、自分が頭の中で思い描いていた
イメージに近いものが見えるなということは、DMの写真を撮りながら思いました。今回の展覧会のテキストを読んでみて思ったのは、近目と遠目というと、モネの絵画みたいなところに行き着くんです。自分の中で確かにモネは尊敬する作家の一人なんですけれども、その言葉がありがたいと思いつつ、そこから抜け切れていない自分がいるのかなとも思ったりして…
篠原 上島さんの作品には、近目と遠目以外の、何か絶対的な距離があると思うんですが。作品を観るときに確かにそういう距離を感じるんで、制作しているときに距離の想定があると考えたんです。
上島 一枚一枚描いているときには自分の中ではあやふやになっていってしまう部分なんですけれども、ただ、作品を展示するときには、空間の中に埋もれてしまうようなものにしたいとは思っています。
篠原 それが絵までの距離なんだけれども、絵の空間は、前後だけではなくて左右にも広がりがあるじゃないですか。一枚の絵の周りに視えない空間ができるとして、そうしたもの対する想定はあるんですか。それこそまさに絵画的な空間だと思うんですが。絵画の力や、イリュージョンの力と言ってもいいかも知れないけれども。
上島 平面装飾性みたいなもののほかに、あくまでも平面が一個の画面の中で完結するという考えがあるじゃないですか。空間性が出てくるとどこかでそれを潰してしまいたくなり、平面的なものになってしまうと、逆にそれを納得できない自分がいて、空間的な広がりが、あくまで自分の中では、一枚の絵を置いてそこから空間的な広がりができるかというよりも、オブジェではないんだけれど、何枚も羅列させてそこから全体的な一個の空間をつくり上げるというイメージがあるんです。
篠原 それだからこそ、個展を開く意味があるんであってね。ところで、今回制作する作品の一番の狙いはどのような部分ですか。
上島 白い意識と空間性のような部分です。白って、精神的に白痴の状態という意味を含んでいますよね。案外と興味をそそられるものは、無意識の内にそういう人だったり、そうした世界だったりするんです。境界線の部分というか、今やっていることがそれを表すかどうかはわからないんですが、それを無意識の内に感じている感覚を具現化させたい。自分が選んでいることがそれとは全然違うところに行ってしまっているかもしれませんが、一つの連鎖として、それを感じるような方向に持っていきたいと今は思うんです。人とかを使って表現するのはあまり自分には合っていない。そういうものじゃなくて、もっと感覚的に感じる部分が絶対にあると思うんです。もう一つ、今平面の中でやっていることでいえば、平面性と装飾性がありながら、装飾的でないぎりぎりのところはどこなんだろうということです。そこが本当にうまくできたらおもしろいんだろうなあと思っていて。そこのところをうまく出している作家をまだあまり見たことがないんです。必ずどちらかの様式的なものになってしまうか、もしくは完全に具象的なものとして、たとえば、いわゆるスーパー・フラットのようになってしまうかですよね。スーパー・フラットは好きなんですが、自分自身がそれをやりたいかというと、そうではない。だから、いろいろな色を使ってみたいという欲求がある反面、ホワイトやグレーだけでとことん押さえた中で、どれだけできるだろうかというような意識もあるんです。


 
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